平安儒人と南越儒者





@伊藤 龍洲  (道基。子崇。宜斎。) 清田氏より養子。  (1683〜1755)
_ 伊藤坦庵の嗣子、平庵が歿し(1709:享年55)、門人である龍洲が清田氏より伊藤氏の養嗣子となる。
播州人、福井藩儒。

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_ 墓所: 京都 大雲院
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A伊藤 錦里 (荘治朗。縉。君夏。鳳陽。)  (1710〜1772)
_ 平安人、伊藤龍洲の長男。福井藩儒。伊藤東所とならび「京師の両伊藤」と唱す。
_ 墓所: 京都 大雲院
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B 清田 叟  (絢。文興。文平。君錦。孔雀樓。) (1719〜1785)
_ 伊藤龍洲の三男。父の本姓である、清田氏を嗣ぐ。西京三傑と呼ばれる。福井藩儒。
二兄の伊藤錦里、江村北海と、君錦の三兄弟を”伊藤氏の三珠樹”と稱す。

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_ 墓所: 京都 大雲院
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   ”叟清先生之墓” 拓本。         妻墓 ”越國文學清君錦先生性雲院献節内人墓”


C岡 白駒  (龍洲) (1692〜1767)
_ 河野恕斎、井沢君光の父。播磨網干人。西京三傑と呼ばれる。
初め医を学び、のち儒者となり江戸と長崎に遊学。京都で門戸を開いた。

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_ 墓所: 京都 迎称寺
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河野 恕斎  (子龍。忠右衛門。伯潜。鶴皐。南浜。鹿門。南浜漁人。) (1743〜1779)
_ 岡 白駒(龍洲)の長男。父の旧姓 河野氏を復した。その学、早熟で神童と称された。
混鈍社に参加、詩・書に堪能であった。肥前蓮池藩に仕え大坂藩邸監となったが、37歳で没す。

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_ 墓所: 大阪下寺町 光明寺
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D芥川 丹邱  (養軒。彦章。煥。清太郎。采女) (1710〜1785)
_ 京都生まれ。伊藤東涯・宇野明霞・服部南郭の門人。後、陽明学に転じる。 西京三傑と呼ばれる。
寛延、明和の二度の朝鮮通信使の来訪時に唱和(筆談)する。鯖江藩儒 J芥川思堂(元澄)の父。

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_ 墓所: 京都洛北 
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     丹邱芥先生旧墓碑   (蒼流庵主人様御教授)


E伊藤 仁斎  (源輔。維驕B鶴屋七右衛門。敬斎。裳隠。古学先生。) (1627〜1705)
_ 京都生まれ(先は泉州人)。京都堀川に私塾、古義堂を開き、多くの門弟を教えた。
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_ 墓所: 京都嵯峨野 二尊院
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伊藤 東涯  (原蔵。源蔵。元蔵。紹述先生。) (1670〜1735)
_ 伊藤仁斎の長男。京都生まれ。私塾、古義堂二代塾主。 伊藤東所の父。
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_ 墓所: 京都嵯峨野 二尊院
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F田中 希尹  (登。岸卿。) (1675〜1750)
_ 豊後臼杵人。京都に遊学し、儒学を伊藤仁斎に、古醫方を香川修徳に学ぶ。
元禄14年秋(26歳頃)、越前府中に来遊し藩主の本多氏の礼遇により、儒学を教授した。 墓碑撰文は香川修徳

_ 墓所: 越前府中 龍泉寺
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G香川 修徳  (太冲。修庵。) (1683〜1755)*伊藤 龍洲と同
_ 播磨姫路の人。京都に上って後藤艮山に古醫方を学び、伊藤仁斎に古学を学ぶ。
儒学と医術とは一つであって矛盾するものではないとの堂を、名付けて 「一本堂」と号した。

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_ 墓所: 京都嵯峨野 二尊院
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H後藤 養庵  (達。有成。左一郎。艮山。) (1659〜1733)
_ 江戸常盤橋の人。京都に出て、独力で古醫方を学んで医家としての名轟き、多くの門人を抱える。
古醫方の先駆として知られ、「湯熊灸庵」とも呼ばれた。 墓碑撰文は香川修徳

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_ 墓所: 京都 蓮台寺普門院
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I江村 北海  (傳左ヱ門。綬。君錫。) (1713〜1788)
_ 福井藩儒 伊藤龍洲の二男。明石で育ち、後に宮津藩士 江村毅庵の養子となり跡を継いだ。
京都で詩の結社「賜杖堂」を結成。芥川丹邱、武田梅龍らが参加。
大坂の片山北海、江戸の入江北海と共に「三都三北海」と呼ばれた。
長男:江村秉愚齋(愚亭)、二男:樋口道立(樋口氏養子)、三男:清田龍川(叔父、清田氏養子)。

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_ 墓所: 京都 本圀寺  (旧地: 猪熊通五条)妙恵会総墓地
_   (寺所旧地)




_ 本圀寺旧地 同墓地に、
江村北海 撰文の「小栗常山(小浜藩漢学画家)墓」現存。

_ 法名 眞道院宗義日顕居士  煥、明卿。 通称: 直之進。鶴皐之孫。
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天明甲辰(1784)之春  ”北海江邨緩撰”

左墓は「十洲小栗先生墓」(光胤。万年。) 小栗宗丹、宗栗の裔。常山の弟。 詩文、書画を能くす。


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_ 江村 專斎  (宗具。倚松菴。) (1565〜1664)
_ 平安人。細川幽斎等と交す。伊藤担庵の師であり友なり。
後水尾帝より鳩杖を賜る(漢詩社「賜杖堂」の由来)。享年一百。

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_ 江村 毅菴  (簡。宗東。) (16xx〜1735頃)
_ 平安人。江村專斎の曾孫(江村訥斎の次子)。丹後宮津藩儒。江村北海の養父。

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_ 江村 愚亭  (宗秉。孔均。) (1736頃〜1770)
_ 江村北海の長子。詩文、書を能くす。北海の詩文輯め、明和年間「北海先生詩鈔」を編す。
父北海より先歿。


_ 墓所: 京都 善正寺
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                        江村家墓所


_ 樋口 道立  (源左衛門。芥亭。柴庵。自在庵。道卿。) (1738〜1812)
_ 江村 北海の次男。樋口家の養子となる。武蔵川越藩京都留守居役。
”夜半亭”などの句会等において与謝蕪村などと親交する。「芭蕉庵」の再興に尽力。
道卿の「芭蕉庵」の由緒を記した、金福寺「芭蕉顕彰碑」の撰文は叔父の清田絢。

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_ 墓所: 京都 極楽寺
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道卿の養父・樋口卜斎の墓碑文は、実父・江村北海の撰。




片山 北海  (忠蔵。猷。徽猷。孝秩。) (1723〜1790)
_ 越後人。宇野明霞の門人。在坂の漢詩人を結集した「混沌社」盟主。三都三北海の一人。
「混沌社」には、河野恕斎、篠崎三嶋、鳥山ッ岳(府中人)らがいる。

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_ 墓所: 大阪城南寺町 梅松院
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                         謹書 ”浪華 篠應道”= 篠崎三嶋
                         隣墓 ”入江昌喜 墓”も、篠應道謹書



_ 浄春寺には、
片山 北海 撰文の「大矢尚斎(醫家)墓」有り。

_ 南越粟田部人。名は弼、字は丈介。曾祖父は、福井藩祖結城秀康家臣。
尚斎に至り京師に出、後藤椿庵、足立榮庵に醫を学び浪華にて開業す。享年四十八。
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墓碑の劣化著し。 大矢尚斎墓は右。 左、大矢孝靖(文字欠落=尚斎男)墓誌文に”儒就片山北海”と有り。



鳥山 ッ岳  (宗成。世章。宇内。右内。) (17??〜1776.3.26)
_ 越前府中人。「混沌社」の長老。

鳥山家は代々攝津吹田の醫家で、ッ岳の祖父・長庵の代に越前府中(現:越前市)に移った。
故に、ッ岳は越前府中で生まれ育った。後に、父の見庵に倣(なら)いッ岳も京師に遊学。
宇野明霞に入門、初め醫を学ばんと欲し香川修徳に学ぶも、詩才ありを以って儒者に勧み、
伊藤東涯の門に及ぶ。(享保年間中頃:1720年代、ッ岳二十代と思われる)
このッ岳在京中には、父・見庵の墓碑銘を伊藤東涯に撰文の依頼(享保15年7月)もしている。
その後何時の頃かッ岳帰郷するが、香川修徳の六十の賀集(1742)や七十の賀集(1752)に入集し、
宝暦3年(1753)には「龍草廬先生集初編」の序を撰じ、翌宝暦4年(1754)には、
同じく龍草廬の「幽蘭社」の誌集に詩を寄せ、府中にありしも中央詩壇と繋がり続ける。
そして宝暦6年(1756)正月に大坂に移住す、ッ岳五十余歳。
来阪の翌年の宝暦7年(1757)には自門の一派も形勢、在阪の片山北海門や菅甘谷門などと交遊し、
やがて明和2年(1765)「混沌社」が結成され、ッ岳は詩社の長老格となる(六十余歳)。
また、大阪船越町松屋町東にあったッ岳の書斎を「垂葭館」と称した。

ッ岳(宗成)の兄に宗元(同じく京遊)、甥に蘭陵、養子に医業を継いだ俊達がある。
遺命に「不立墓碣夫婦合葬栽梅二株爲標」とあり。ッ岳の歿後「混沌社」は事実上消滅す。

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_ 墓所: 大阪夕陽丘 珊瑚寺
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            右夫婦墓は、ッ岳の養嫡子の俊達とその妻の墓碑。
            左ッ岳の墓標は遺命により、子孫、門人などゆかりの人による後の建立とも考えられる。

            ちなみに「ッ岳」の由来は、
            越前府中の南東に望まれる日野山(ひのさん)=雛ヶ岳(ひながだけ)=雛岳(すうがく)から、
            同音の「ッ岳」を號したと伝わる。


頼 山陽  (久太郎。襄。子成。) (1781.1.21〜1832.10.16)
_ 父の頼春水と、母の梅し(大坂の医家、飯岡義斎の長女)との間に、
大坂の江戸堀北の私塾「青山社」兼自宅で頼家の長男として生まれる。
越前府中の伝承によると文化14年(1817)の夏、京遊した越前府中藩儒の竹内長孝は、
文化8年(1811)より京都にて開塾していた山陽と親交を持ったと伝わる。

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_ 墓所: 京都東山 長樂寺
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J芥川 思堂  (左民。元澄。子泉。) (1744〜1807)
_ 芥川丹邱の長男、京都生まれ。明和甲申の朝鮮通信使の来訪時に、大坂鴻臚館に父丹邱と同行し 唱和(筆談)する。
その名声広がり、大坂にて両年門人を教授し「混沌社」とも交遊す。
天明8年、南越鯖江 間部候の要請により儒臣となり、 鯖江藩校の進徳館や江戸の藩校惜陰堂の教官を務め多くの人材を育てる。

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___ 芥元澄印     子泉氏
_ 墓所: 鯖江 萬慶寺背山
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              往時の墓所                    墓碑 拓本


後藤 栗庵  (左一郎。萬蔵。普。徽。洵義) (17??〜18??)
_ 芥川丹邱の四男、鯖江藩儒の芥川思堂の弟、京都生まれ。
後藤養庵(艮山)の孫、後藤慕庵(香四郎:1736-1788)の養嫡子となる。
_ 墓所: 京都 蓮台寺普門院
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K田中 充庵  (圓。子方。) (1713〜1788)
_ F田中希尹の長男。府中藩儒医。墓碑撰文は芥川元澄
_ 墓所: 越前府中 龍泉寺
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K田中 適所  (充孚。信蔵。) (1725〜1801)
_ F田中希尹の三男。越前府中生まれ。藩漢方医 奥村南山に医学を学び、後に京遊し柴野栗山、皆川 淇園、
清田文興、高芙蓉 等の儒者と交遊す。淀候、阿波候、鯖江候に儒者として仕え、のちに福井に移住す。

_ 墓所: 越前府中 龍泉寺 /福井 瑞源寺
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            龍泉寺 田中家墓                       ”福井 田中氏”


L皆川 淇園  (文蔵。伯恭。) (1735〜1807)
_ 伊藤錦里 等の京師の門人。肥前平戸藩をはじめ多くの藩に招かれる。柴野栗山 等と交遊。
漢詩社の「三白社」を結成す。また、文化3年(1805)に私塾 弘道館を開く。 (二代塾主 孝順先生=淇園の男)

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_ 墓所: 京都 阿弥陀寺
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M高 芙蓉  (大島芙蓉。孟彪。孺皮。) (1722〜1784)
_ 甲州の人。父は医師の大島氏。印章学を大成し皆川淇園や柴野栗山に「印聖」と称された。
墓碑は、本人が生前の建立と伝う。

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_ 墓所: 京都 一心院
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N芥川 玉潭  (轍。希由。) (1777〜1832)
_ 芥川思堂の二男。京都生まれ。父芥川思堂の跡をつぎ鯖江藩儒となる。藩校進徳館の創設につくす。
藩主 間部家2代の墓誌を撰文する。

_ 墓所: 鯖江 萬慶寺背山
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O山室 士錦  (文章斎。蝦蟇山人。) (1734〜1803)
_ 父 良順は味真野五分市人。府中に出て醫を業とす。士錦はその長男。醫業を継ぐ。
墓碑撰文は芥川思堂。    曰く  ”・・既長而遊京師受醫術一本堂香川氏 學詩于草廬龍氏・・”

_ 墓所: 越前府中 蓮尚寺
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P山室 士廉  (維直。龍鐘斎。) (1778〜1834)
_ 山室士錦の養子、醫業を継ぐ。墓碑撰文は松永共平
曰く  ”・・于於京師受經於芥川先生 學詩於六如上人而醫師壬生堂中村先生於是學成・・”

士廉の妻 阿周、合同墓。 墓碑撰文は竹内長孝 (1753〜1828)。

_ 墓所: 越前府中 蓮尚寺
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Q松永 共平  (作次郎。新七郎。茂章。) (1795〜1859)
_ 府中藩儒 竹内長孝(1758〜1828)の二男。府中藩校立教館教授。
非常な読書家で、「天下讀書の楽しさに勝れるもの無く。一室の内、尚聖賢を友とす。」と言っていた 。
後、沖氏を冒し、沖薊斎と稱す。

_ 墓所: 越前府中 陽願寺
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R摩島 松南  (助太郎。長弘。子毅。) (1790〜1839)
_ 若槻幾斎(1746〜1826)に師事。代々医を業としが、文化12年に医を廃し講説を業とた。
文政11年秋、交友のあった越前府中藩儒 竹内霞堂(1792〜1828)の墓誌を撰文す。

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_ 墓所: 京都 本禅寺
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S芥川 歸山  (済。捨蔵。小軫。舟之。) (1817〜1890)
_ 芥川玉潭の長男。初め、京都の後藤佐市郎に師事し、後に江戸に出て林大学頭に入門、 足利学校にも学ぶ。
帰藩後は進徳館の師範、敦賀県鯖江黌教師、武生小学校授業伝習所一級教師等を歴任する。

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_ 墓所: 鯖江 萬慶寺背山
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=======  軟弱探墓マイラーの、突撃アポなし  墓碑めぐり録  =======


篠崎 三嶋  (伊予屋長兵衛。応道。安道。郁洲。) (1737〜1813)
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_ 伊予人。家業の紙屋を継ぐ。始め、菅甘谷の門人、兄樂郊に学び後、甘谷につく。
詩文、易学、天文にも通ず。天文は、麻田剛立に学んだ。
家業を安永5年にたたみ、私塾「梅花社」を開く。また、片山北海らの「混沌社」に参加す。


_ 篠崎 小竹  (長左兵衛。弼。承弼。畏堂。摂江。南豊。梅花書屋。) (1781〜1851)
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_ 浪華人。篠崎三嶋の養嗣子。
実父は豊後人で在阪の医師、加藤周貞。小竹、9歳で三嶋の「梅花社」に学び、13歳で三嶋の養子となる。
頼山陽とは生涯の友となり、山陽の勧めもあり江戸昌平黌に学ぶ。後に帰坂。
小竹の代に至り、土佐堀「梅花社」は門下生1500を数え、幕末大坂最大の塾となる。

_ 墓所: 大阪 天徳寺
_ (平時一般非公開)




_ 宇津木 益夫  (謙。天放。太一郎。昆台。五足斎。霞谷。) (1779〜1848)
_ 尾張人。松田棣園に従学し、医を浅井貞庵・平野竜門に学ぶ。18歳で京都に遊学し、吉益南涯らに学んだ。
妙法院宮微妙法親王の侍医となり、自ら五足斎と称し五山の僧侶も教えを受けるものが多く、
千余人の仏門の弟子があったという。越前府中藩儒、竹内長孝と交遊あり、撰文す。

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_ 墓所: 京都 慈氏院
_ (平時一般非公開)




_ 柴野 栗山  (邦彦。彦輔。彦助。古愚軒。) (1736〜1807)
_ 讃岐(さぬき)人。「寛政三博士」のひとり。
10歳ごろから高松藩儒後藤芝山について学び、18歳で江戸に出て林大学頭信充に入門、主に中村蘭林に学ぶ。
浪花に来たり中井竹山、履軒らと交友、「混沌社」のひとり。
また京都に在って皆川淇園、赤松滄洲、西依成斎らと交遊し「三白社」と称した。
明和4年阿波藩儒となる。 翌明和5年、再び江戸に移り学制の整備に当たり”寛政異学の禁”を実施した。
文化4年、江戸駿河台の自邸に没す。大塚先儒墓所に改葬。

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_ 墓所: 京都 西方寺 / 文京区 大塚先儒墓所
_ (平安”門人中”墓 平時一般非公開)




_ 伊藤 君水  (雄之進) ( 〜1831)
_ 伊藤君嶺(塩田氏)之子、伊藤錦里の孫。天保2年3月7日歿。福井藩儒。

_ 墓所: 福井 清源寺 (戦前)
_   (寺墓・所在地未特定??。摩訶不思議、城西也。-。-;)

更なる探索において、福井の街の戦災・震災の影響を痛感す。m(_ _)m

そしてその後・・・、
清源寺の墓地の移転先が
「足羽山西墓地」で、
また、この移転先の区画が 各お寺ごとに明確な事を知り再び探墓す。
(つまり、福井の街中にあった複数のお寺の墓々は、戦災・震災後の復興時に其殆んどが、
この広大ではありますが整然と区分けされた足羽山「西墓地」に集められたという事でした。)

福井藩儒の伊藤氏のお墓で、京都にではなく唯一福井にあったと思われる”墓碑”にたどり着けるかも・・・?、
これはかなり期待が持てましたが、残念ながらその
「伊藤君水の墓」 は発見に至らず。

その際、同じく清源寺にあった福井藩儒の前田氏の墓の一基を見つけました。
以下に追記します。



_ 前田 梅洞  (彦次郎。修。士業。) (推1785〜1856)
_ 前田家は、葉庵(平安人:宝暦2年歿)より子孫世々福井藩儒。
(葉庵は山崎闇斎門下。初め福井藩の支藩・松岡藩招聘の儒医)
前田梅洞は、前田雲洞(葉庵から4代目)の庶長子。安政3年7月19日歿。享年七十二。

梅洞の父・雲洞(推1746〜1832)は、府中藩儒の大柳そう園(推1739〜1804)を門下に持つ。
大柳そう園の墓銘は前田雲洞、撰文は樋口徹。(大柳家墓所は武生の本興寺)
大柳そう園の長子・大柳春華(推1761〜1825)の墓銘は竹内霞堂(1792〜1828)。
大柳春華、竹内霞堂、共に府中藩儒。(共に文政年間歿)  
(「若越墓碑めぐり」より)
_ 墓所: 福井 足羽山西墓地公園 (元清源寺内墓所)
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墓石はほとんど原型をとどめていませんが、なんとか刻字が何文字か読み取れます。
”不肖孤 前田道寛 ○至 織田信○” =  ”嗣子 前田道寛撰文 織田信純書”    
(「若越墓碑めぐり」照合より)

また「若越墓碑めぐり」では、”梅洞の墓銘如きは、共墓石に僅に一破片残存するものなり。”とあり、
昭和の初め、元清源寺内墓所にあった時既に墓石の傷みがかなり激しかった記録になっていますが、
この当時一番傷んでいたと思われる”梅洞の墓銘如き”が唯一、今に残って確認出来るその不思議を感じます。

また更に砕け滅びゆく墓石の傍らに咲いた一輪の白花の、その一瞬の開花に遭遇出来たご縁も幸せに感じました。







参考文献:
先哲像傳(デジタル・データ)
北海先生詩鈔 上(デジタル・データ)
若越墓碑めぐり
たけふ歴史探訪(中巻)
京都名墓探訪 洛東編 T・U


参考サイト:
高山彦九郎記念館・高山彦九郎交遊録
『平安人物志』人名録


参考ブログ:
蒼流庵随想


m(_ _)m



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