@ | 片山 北海 (忠蔵。猷。徽猷。孝秩。) (1723〜1790) |
越後の人。 年十八にして京師に遊び宇野明霞の門人となる。 明霞没後大坂に移住し「孤松館」を開塾、後に「混沌詩社」結成に盟主となる。 | |
墓所: 大阪城南寺町 梅松院 『 北海片先生之墓 』 | |
A | 鳥山 ッ岳 (宗成。世章。宇内。右内。) (17??〜1776) |
越前の人。 歳十代で京師に遊学し宇野明霞に入門、後に医を香川修徳に、 儒を伊藤東涯に学ぶ。 遊学後、府中にて医を業とするが、ッ岳五十余歳にして越前府中より大坂に移住す。 浪華にて片山北海門や菅甘谷門などと交遊し混沌詩社結成時より加盟、社の最長老となる。 | |
墓所: 大阪夕陽丘 珊瑚寺 墓標:『 ッ嶽鳥山先生之墓 』 | |
B | 菅 甘谷 (晨耀。子旭。小膳。南[山辺]喬。) (1690〜1764) |
岸和田の人。 本姓 府川氏。堀氏に養子となる。堀氏もと菅氏をもってこれを冒す。 岸和田藩江戸藩邸に留まる事二十余年、その間古学を学ぶも病を以って大坂に隠居し徂徠学を説く。 門人にはあとに混沌詩社の中心となる、 兄樂郊、田中鳴門、細合半斎、篠崎三島、葛子琴、義端、岡魯庵等がいる。 | |
墓所: 大阪舎利寺 舎利尊勝寺 『 甘谷菅先生之墓 』 | |
C | 篠崎 三島 (伊予屋長兵衛。応道。安道。郁洲。) (1737〜1813) |
大坂の人。 父は伊予の出。紙問屋伊予屋を継ぎながら菅甘谷の門人兄樂郊に師事、 混沌詩社に参加。 儒学の外、詩文易学天文など博学多通、天文暦は麻田剛立に学ぶ。 書を特に能くし、家業をたたみ隠居後は私塾「梅花社」を設け盛況をみる。 | |
墓所: 大阪与力 天徳寺 『 三島篠崎先生墓 』 | |
D | 葛 子琴 (張。御風楼。子園叟。貞元。庵。) (1738〜1784) |
大坂の人。 姓橋本氏、本姓葛城氏。橋本家は代々医を業とする。父を早く喪い父の門人に養う。 菅甘谷、兄樂郊に学び混沌詩社に加盟。詩才は、社盟第一の評あり。 玉江橋に楼を構え「御風楼」と称した。 | |
墓所: 大阪与力 栗東寺
『庵葛先生 』 | |
E | 田中 鳴門 (金屋七郎右衛門。章。子明。愛日園。) (1722〜1788) |
近江の人。 大阪に出、鍋釜を治する金物屋田中氏を継ぐ。其居所を愛日園と号し朝夕読書に好ずる。 菅甘谷に師事し、また詩文を片山北海に学び混沌詩社の長老の一人となる。 博学多識の名声あり。「混沌詩社」の社名を命名す。 | |
墓所: 美原町今井 法雲寺 無縁墓群中在 『 鳴”門田子明之墓”』 | |
F | 細合 半斎 (八郎左衛門。離。方明。麗王。斗南。学半斎。太乙真人。) (1727〜1803) |
京都の人。 早くより大阪に出、菅甘谷に儒を学び、書を趙陶斎に学ぶ。 また詩文を能くし片山北海の混沌詩社に加盟。 京都に歿し黒谷にて荼毘に付され、歯骨を三分し三所に埋める。 大阪法樂寺の墓碑表左右の刻字(先師・・、後師・・)は半斎生前の遺志を男方義が継ぎ刻したものと伝う。 | |
墓所: 大阪 法樂寺
『先師蘭堂居士
大益善明居士
後師泰魔居士』 | |
G | 木村 蒹葭堂 (坪井屋吉右衛門。巽斎。遜斎。礼恭。世粛。) (1736〜1802) |
大坂の人。生家は北堀江で酒造業を営む。 六歳で絵画を学び、十一歳で片山北海に入門(後の二十九歳で混沌詩社発足に参加)、 書を趙陶斎に師事。 その後十二歳で父の薦めで草木に興味を持ち十六歳で本草学を学び、 標本、奇・珍書、骨董、書画の収集家として知られるようになり、温厚な性格も相まって 博物館、図書館となった自宅には全国の学者、文人が訪れ一大サロンとなった。 その交友は広く大名に及ぶ。蒹葭堂二十一歳時の結婚の媒酌は細合半斎が務めている。 「混沌詩社」は、当時の学問所であった「懐徳堂」や「泊園書院」と並ぶ、 木村蒹葭堂を中心とした「蒹葭堂会」が母体で結成された詩社であった。 | |
墓所: 大阪 大応寺 『 蒹葭翁之墓 』
邸跡: 大阪北堀江(写真碑左奥) | |
H | 趙 陶斎 (養。仲頤。息心居士。枸杞園。清暉閣。) (1713〜1786) |
長崎の人。 父は清国、母は長崎丸山の妓。十歳にして父母と別れその後来日した中国僧の弟子となる。 師僧と共に上京し万福寺に入るが師僧の隠退後還俗し全国を漫遊し大阪に移住、のちに堺に移る。 書家の名声高く、細合半斎、木村蒹葭堂、十時梅涯、頼春水、森田士徳、等が門人となる。 蒹葭堂に請われ「蒹葭堂記」を記す。 | |
墓所: 大阪堺 本源院 『 息心居士之墓 』 | |
I | 河野 恕斎 (忠右衛門。子龍。伯潜。鶴皐。南浜。鹿門。南浜漁人。) (1743〜1779) |
京都の人。 岡 白駒の長男。父の旧姓 河野氏を復す。 肥前蓮池藩鍋島家の大坂蔵屋敷の留守居役を勤め、詩・書を能くした。 私邸に客を招き詩会を開き、自身で料理を振舞うを好んだという。 混鈍社に参加するも三十七歳で歿する。 | |
墓所: 大阪下寺町 光明寺 『 河野恕斎先生之墓 』 | |
J | 頼 春水 (弥太郎。青圭。惟寛。惟完。千秋。伯栗。霞崖。拙巣。和亭。) (1746〜1816) |
安芸の人。 紺屋を営む教育熱心な父の方針で四、五歳より学問に勤しむ。 十九歳で病を得、医師を探すうち大坂に逗留し片山北海に入門。書と篆刻を趙陶斎に学ぶ。 まもなく混沌詩社に加わり、七歳年上の葛子琴とは入魂の仲となる。 その後詩才早くも認められ、北海の薦めで大坂江戸堀に私塾「青山社」を開く。 江戸堀川の向こう岸には篠崎三島の「梅花社」があり、 その梅花社は梅、一方青山社は藤であった。 安永八年、懐徳堂の中井竹山の媒酌により結婚、翌年の春水三十四歳の年長子山陽が生れるも、 その翌年には、故郷広島藩に招聘され一家は安芸に戻り春水は学問所の開所に勤める。 その後単身江戸勤番となり江戸の儒者とも交友、また朱子学を幕府正学とし林家私塾の官学化に関わる。 享和三年江戸での勤を解かれ安芸に帰国、1816年安芸に歿す。享年七十一。 春水の交友回想記「在津記事」「師友志」は、当時の大坂の文人の人となりを知る貴重な文献となっている。 | |
私塾「青山社」(頼山陽誕生地)跡: 大阪江戸堀 | |
K | 中井 竹山 (善太。積善。子慶。関子。渫翁。雪翁。) (1730〜1804) |
大坂の人。 懐徳堂の二代塾主であった中井甃庵の長男、中井履軒の兄。五井蘭洲に学ぶ。 竹山、懐徳堂の学問預り人(事務担当)から天明二年には塾主となり、懐徳堂の最盛期を築く。 弟の履軒は兄を支え。麻田剛立や蒹葭堂に出入りしていた油屋吉右衛門などと交友する。 | |
墓所: 大阪 誓願寺 『 竹山中井先生墓 』 (墓碑は模造碑) | |
L | 森田 士徳 (吹田屋六兵衛。茂政。直政。懐玄堂。抱真斎。) (1738?〜1782) |
河内荒木村の人。 本姓矢倉氏。靱の乾魚商森田氏を継ぐ。書を趙陶斎に師事、混沌詩社に加盟。 頼春水の「青山社」開塾を資助す。旅好きで社盟とよく旅をし、絵画の収集家でも知られる。 | |
墓所: 大阪 法音寺 『 森田氏之墓 』(台座: 吹田屋六三郎 ) | |
M | 北山 橘庵 (彰。元章。) (1731〜1791) |
河内松原の人。 先は和田氏。父の和田玄昌は北山寿庵(先は明の人)の門人で、北山姓を授かる。 橘庵は医を橘元秦に、儒と詩を柳沢淇園に学ぶ。丹南藩主に士籍を与えられ、 明和元年、通信史の接待役の岸和田藩主の要請で一行と唱和す。 混沌詩社と親交深く、橘庵邸を混沌詩社の支部とし頻繁に社友を迎え詩会が開かれた。 | |
墓所: 大阪松原一津屋 北山家墓地 『 北山橘庵先生 』 (写真は北山赤城の新墓碑↓) | |
N | 北山 七僧 (昌蔵。皓。白甫。仏橋。七僧居士。定武樓。桃庵。) (1721〜1806) |
大坂の人。 泉州侯に仕えた父、柳庵の子。祖父の李庵もまた師の北山寿安に北山姓を許された。 江戸遊学で服部南郭に師事、帰坂後高芙蓉、池大雅と交友した。 宝暦初年、中之島渡辺橋の齋藤家に入家し備前嶋過書船役人を勤める。 明和元年の通信史来坂には、同門の北山橘庵と共に唱和し筆談し、 混沌詩社とも親交あり、社友と橘庵宅を訪問し詩会に参加する。 大坂で寿安の医業を継いでいた橘庵の弟が一津屋に帰る事となり、七僧が大坂で医業を始めた。 | |
墓所: 大阪大道 超願寺 『 七僧北山翁墓 』 | |
O | 福原 丹安 (剛。百錬。) (1709〜1772) |
攝津高槻の人。 本姓森本氏。幼年で両親を喪い大阪に出て、近藤自丹に養育される。 長じて医を学び福原氏を継ぐ。詩文を能くし、音楽を好み箏や琵琶を弾いた。 また楽器を救うも医者の指命と称し、壊れた楽器修理や楽器収集を趣味とした。 混沌詩社発足からの社盟。 | |
墓所: 大阪九条 九島院 『 福丹安先生之墓 』 | |
P | 福原 承明 (尚修。映山。水雲居士。) (1735?〜1768) |
大坂の人。 福原丹安の子。父の医業を継ぎ、読書を好み博識豊富で詩文を能くす。 また書画、篆刻、楽器にも長じていた。明和元年の通信史の大坂来訪に唱和し雅号を貰う。 父の丹安と共に、混沌詩社設立時から加盟する。 | |
墓所: 大阪九条 九島院 『 福承明之墓 』 | |
Q | 小山 伯鳳 (小山屋作兵衛。養快。儀。) (1750〜1774) |
和泉の人。 大坂南久宝寺で薬種業を営む。多病の質を持ってよく群籍に精通し 片山北海の塾に入門し詩文に長ず。混沌詩社に入りその俊才を持って知られる。 特に怪奇に関心深くその詩文もまた奇気を帯び、また号も音相通ずる妖怪から採る。 頼春水と親しく、伯鳳の弟は春水の門に学んでいたが弟もまた早世す。(右隣弟之墓碑) | |
墓所: 東大阪 重願寺 (元谷町八) 『 伯鳳小山君墓 』 (頼弥太郎惟寛 撰)
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R | 三井 棗洲 (元孺。玄孺。玄珠。善之。文卿。) (1766〜1833) |
大坂の人。 三井眉山の子、代々眼科医を業とする。 文雅の道に達し詩を能くし、片山北海に学び混沌詩社の社友となる。 | |
墓所: 大阪 浄春寺 無縁墓群中在 『 棗洲三”井先生墓”』
(左隣父 三井眉山之墓碑) | |
S | 萱野 錢塘 (來章。君誉。) (1729〜1781) |
肥後の人。熊本藩士。 錢塘、次男なれど兄歿し父の業たる大坂藩邸守を継ぐ。 父潤、邸の傍らに舎を開き藩士に儒を講ずるを、錢塘も後を継ぎこれを修む。 詩文に長じ混沌詩社に入り名声高し。また儒学の外、武術にも長じ特に弓槍剣法を能くす。 | |
墓所: 大阪 法雲寺 無縁墓群中在 『 悟徹”院隻應天目居士”』
(藪孤山撰、篠崎三島書)
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21 | 萱野 謙堂 (熙載。汝庸。映雪。) (1759〜1808) |
大坂の人。 萱野錢塘の子。家職を継ぎ熊本藩の大坂藩邸留守居役。 中井竹山、藪孤山に師事し詩文に長ず。父錢塘と同様に弓槍剣術、調馬、茶道、花道など多芸に長じた。 官職の暇毎に、頼千秋、片山北海、葛子琴、篠崎三島らと交わり雅遊を為す。 文化五年冬、藩命により船路にて帰藩途中、暴風による転覆事故に遭い歿する。 | |
墓所: 大阪 法雲寺 無縁墓群中在 『 大悟院”瑞林映雪居士”』
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22 | 義端 (俗姓脇坂氏。勇進。空門子。霊松道人。龍鱗翁。) (1732〜1803) |
真宗仏光寺派霊松寺十二世。 菅甘谷の門人。詩文、書を能くし、木村蒹葭堂と親しく交友す。 門人に春田黄塘(墓:淨春寺在)、河辺徹斎がいる。 | |
墓所: 大阪 霊松寺 『 龍鱗庵釈義端勇進道人墓 』
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23 | 十時 梅涯 (半蔵。業。硯亭。清夢軒。賜。李長。子羽。天臨閣。) (1749〜1804) |
大坂の人。文人画家。 始め京師にて伊藤東涯に儒を学び、浪華の趙陶斎に書を学ぶ。 師趙陶斎の縁により伊勢長島藩主増山雪斎に儒をもって仕える。 その後泉州佐野で筆墨に専念、のちに大坂に隠居し細合半斎、木村蒹葭堂、岡田米山人らと交友した。 | |
碑所: 大阪 正念寺 『 十時梅涯翁之碑 』 (明治廿四年 笛村芳橘新建)
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24 | 岡田 米山人 (米屋彦兵衛。國。子彦。米翁。) (1744〜1820) |
大坂の人(?)。文人画家。 家業の米屋を営む傍ら独学で書画、経学を修め、伊勢藤堂藩に仕え大坂蔵屋敷留守居役の下役になる。 文人との交友広く、木村蒹葭堂、頼山陽、田能村竹田、篠崎小竹、十時梅涯、浦上玉堂などと知己になった。 | |
碑所: 大阪 妙中寺 『 和恵岡田家君 』 (夫婦墓)
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25 | 麻田 剛立 (庄五郎。妥彰。彰庵。正庵。) (1734〜1799) |
豊後杵築の人。 本姓綾部氏。儒者の父、絅斎の四男。医学、天文・暦学を修め、特に天文学は独学で研究した。 藩医として取立てられたが、更に天文学を修める為脱藩し来坂、中井竹山・履軒のもとに身を寄せ麻田と改姓す。 幕府の改暦の御用命令に高齢を理由に辞退して、門人の間重富と高橋至時を推挙した。 暦学の塾を開く一方、医者としては動物、人体の解剖を行い、中井履軒は麻田の解剖所見を記している。 | |
墓所: 大阪 淨春寺 『 剛立麻田先生之墓 』
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26 | 間 長涯 (十一屋五郎兵衛。大業。耕雲。重富。) (1756〜1816) |
大坂の人。 家業は質屋を営む。二十五、六歳で麻田剛立の門人となる。 剛立の推薦で江戸へ行き幕府の改暦に赴き、帰坂後も天文方御用を務めた。 幾多の観測機器の考案、製作も手がけ、長崎の辺海の測量にも参加した。 | |
墓所: 大阪 統国寺(元邦福寺) 『 長涯間先生之墓 』
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27 | 蔀 関月 (原二。徳基。子温。[草冠ニ”夷”]陽斎。) (1747〜1797) |
大坂の人。画家。 本姓柳原氏。大坂の版元で書店の「千草屋」に生まれ、幼少より画才あり”千草屋の絵描きぼん”の異名あり。 長じて月岡雪鼎の高弟となり武者絵を継承し、家業を人に譲り詩文、書も学び画に専念す。 五井蘭洲の門下、加藤景範の弟子筋で、木村蒹葭堂とも交友した。 後に名所図会の挿絵を能く描いた。弟子に息子の関牛、丹羽桃渓らがいる。 | |
墓所: 大阪 正通院 旧墓碑:無縁墓群中在 『 蔀”関月墓” 』
(別に新墓碑在り)
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28 | 加藤 竹里 (小川屋喜太郎。子常。友輔。景範。) (1720〜1796) |
大坂の人。歌家。 売薬業を営む小川屋に生れる。好学の父の影響もあり懐徳堂の五井蘭洲などに学び、中井竹山と親交。 書を三宅石庵、仮名を富永芳春、和歌を有賀長伯に師事した。 また、萱野錢塘、河野恕斎、頼春水ら混沌社友とも交友した。 。 | |
墓所: 大阪 珊瑚寺 『 竹里加藤翁之墓 』 (中井竹山撰)
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29 | 永富 獨嘯庵 (昌安。鳳。鳳介。朝陽。) (1732〜1766) |
長門の人。 本姓勝原氏。父勝原翠翁の三男、十三歳で医家の永富友庵の養子となる。 十四歳で江戸に出て医の修行を始め、後京都の山脇東洋の門人となり、 二十一歳の時、東洋の勧めで越前の奥村南山に赴き吐方を学ぶ。 その後長崎など諸国を漫遊、精糖の技術で密輸を疑われ投獄されるも獄中で著作あり。 三十歳にして大坂で開業し、三十五歳で歿す。 | |
碑所: 大阪 蔵鷺庵 『 処士獨嘯庵墓 』
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30 | 丹羽 桃渓 (大黒屋喜兵衛。元國。伯照。靖中庵。遅道。) (1760〜1822) |
大坂の人。 蔀関月の門弟となり絵を善くし『攝津名所図会』等の諸国名所図会挿絵を多く書けり。 島之内木挽中之町に住し、狂歌もまた善くし鉄格子波丸の門下となり遅道とも號す。 文政五年十月十五日歿。享年六十三。 法號 濤譽松齊禪定門。 | |
碑所: 大阪 圓通寺 『 大黒屋 丹羽氏
喜兵衛 』
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