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1973年の年末

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当時たしか雑誌の中〇コースだったか中〇時代の

正月公開映画の紹介記事の中にあった

この写真で、はじめてブルース・リーと言う人に遭遇しました。

今 思うと上半身はだかというのも妙な感じと思う所ですが

何より 写真のコントラストのせいか、肌の色が黒く 頬骨が出ていて

西洋人にはもちろん、かといって東洋人(中国系や日本系)にも見えないなあ

インドの人?みたいな...(←訳のわからん観察力です。~、~;)

不思議な顔立ちだなぁ。でも、なんか気になる。

それが、遭遇時の印象でした。


当初 ブルース・リーと言うと、この写真がよく使われていた様に記憶してます。

構えのポーズだし、”空手”を分かりやすく?表した写真だったのでしょうか。





その後、

「燃えよドラゴン」が公開、そして 大ヒット&ロングラン。

日増しにブルース・リーの名を見聞きする機会(上記写真で!?)が増えるのですが、

彼は、この映画の完成直後の この時から数ヶ月前に亡くなっていると知り、

それを知らずに初めて写真と遭遇した時に持った印象と相まって

益々ミステリアスに感じたものです。

そして、巷では、"空手映画ブーム"の到来!となりますが、

わたしはと言うと「ドラゴン危機一発」が公開終了を迎えても、

まだ映画館でのブルース・リー体験は出来ないままでいました。

もちろん最初の遭遇から、ここまでには

”ブルース・リーの映画ってどんなんやろぅ?見てみたいなぁ”とは思ってましたが

なにせ田舎の中学生、ひとり電車に乗ってとなり町(県庁所在地)まで行き

洋画を見る為 これまたひとりで映画館に入るという行動までには至ってませんでした

まぁ 単に友達が少なっかただけ?と言ううわさもありますが(^_^)/

しか〜し!、夏休みに入ってから その時は訪れました。




記念すべき日


それは、残念ながら具体的な日付けが記憶にも記録にも有りませんが、

7月中だったか 8月に入ってからだったのか、とにかく夏休みと言う事もあって、

友達と遊びに行く事となり、私の”ブルース・リーの映画を見よや”と言う

強い要望で、あまり気の進まない 付き添いと化したY君(←ごめん)と、

遂に!、遂に公開中のブルース・リー第3弾「ドラゴン怒りの鉄拳」を

となり町の映画館で初体験する事が出来たのでありました。

そして映画が始まるやいなや 私は強い衝撃を受けていました。

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”ブルース・リーの顔が違う。遭遇時のあの写真の人とは別人や”と

それとやはり あの奇声の様な気合い(怪鳥音)と表情、そして体の動きと技の迫力に

それまで経験した事の無いショックに打ちのめさていました。

そして、私は当然の如く二回目の上映を見ようと Y君に提案したのですが

そこに一つの大きな問題が私たち中学生2人に立ちはだかっていました。

それは、同時上映の「空手アマゾネス」を丸々一回見なければならない事です。

丁度 最初に映画館に入った時は、「空手...」の2/3位の所だったので 残り1/3だけ

見ればよかったのですが(それも結構つらかった)、今度は そうは行きません。

私は、後ろ髪を引かれる想いで泣く泣く Y君にうながされて

映画館をあとにしたのでした。

とにもかくも、私にとって あの写真との遭遇から7ヶ月余り後のこの時が、

特にそれからの 5,6年間、そして、今に至るまで魅了し続ける

”グンフースパーアクター「李小龍」”との衝撃的遭遇でした。(そんなたいそーな)




1974年夏休み、それから


それほどの衝撃を受けたわりには、アマゾネス攻撃がはずかしかったのか(笑)

連れがいなかったのか(汗)、何故かその後の夏休みの間に 二度、三度と

映画館に通おうと言う思考能力は働きませんでした。

偶然 本屋さんで見つけた、ブルース・リー本としては初めてとなる

スクリーン誌別冊「ブルース・リー アルバム」を購入して

それを見ては机の上にきちんと置くという事を、繰り返していました。

映画での動く李小龍から受けた衝撃の大きさの分、写真集を見るたびに

以前より”あぁ、この人はもう亡くなっているんだ”とつくづく思い

なんか、亡くなった人の写真集を粗末に出来ない、

そして あんなはつらつとした人が死ぬとは、死とはなに?などと

柄のもなく妙に思春期的?な複雑な心境に陥っていました。

その当時は今よりもブルース・リーを(勝手に)身近に感じていたのでしょう。

そしてこれまた、勝手に死と言う事を李小龍を通して考えさせられていました。

やはりそれ程、私にとって影響が大きかったのです。




そんな日々がしばらく続く中


別冊ロードショー「ブルース・リーの伝説」特集号、スクリーンジャンボ新装アンコール版と

机の上の、ブルース・リー特集本が少しづつ増えていきました。

特に別冊ロードショー「ブルース・リーの伝説」は、李小龍 初心者の私にとって

読みごたえがあり、前に述べた”ブルース・リーの死”に対する妙な感情を忘れさせ

益々、李小龍にはまっていった様に思います。それは、ブルース・リーを、

インドの人?と思ったあの写真から その後、映画での生気あふれる姿と同じアジアの顔立ちを見て

写真とのギャップから極端なまで?身近な人と感じ、

今度は現在に至る本当の意味 私の中で「伝説のカッコいい人」となった時かもしれません。


それから 小学生の時、森田健作のEPを買って以来のレコードも購入しました。

もちろん「ドラゴン怒りの鉄拳」のサントラ盤EPです。

これでもかと言う様な怪鳥音のオンパレードに、パンチやキック、ヌンチャクの炸裂する音、

(親には、当初かなり異様なレコードに聞こえた様です)

そして、マイク・レメディオスの主題歌歌唱と...。最高でした。

これを聞きながら 「怒りの鉄拳」の場面を思い出し、特集本を眺める...至福の時となりました。

そんな折り、テレビでブルース・リー特番があると知り早々に学校から帰り

テレビの前に座って待ちました。確か 9月の土曜日の夕方だったように記憶しています。

内容は、スタジオに映画解説者の氏と風〇健氏、そしてスポットライトが

当てられた誰も座っていないソファーだか丸椅子が一つ置かれており

「ドラゴン怒りの鉄拳」の名場面や「ブルース・リーの生と死」らしき葬儀の場面、

それと、まだ日本公開前の「ドラゴンへの道」のC・ノリスとの映像が少し映っていたと記憶してます。

そして、番組の最後に風〇健氏が「リ〜ッ!」とか叫んでいたような...。

テレコで録音した覚えもありますが、はっきり覚えてません。

もしテープが出てきたらうれしいのですが...。

最近ブルース・リーのHPで知ったのですが、この番組は「ドラゴン怒りの鉄拳」の

日本封切り(7月20日)に合わせて放送された番組だったそうで、

私の住んでいた所は地方だった為、かなり遅れて放送されていたものと思われます。たぶん...。

そして、1974年10月の末頃 私は近所にある本屋さんで、本を買うか買うまいか迷っていました。

別冊のロードショー誌は、1,2ヶ月前に入手していまたが、

”別冊”ではない本家のロードショー誌とはどういゆう雑誌なのか、

こらまでブルース・リーの特集本ばかりに気を取られていて、この日初めて

月刊のロードショー誌の中身をじっくりと立ち読みしたのです。

すると白黒のグラビアに「ありし日のブルース・リー」、記事に「〜伝説」の連載や

監督 R・クローズのインタビューなどなど、そしてカラーの折り込みピンナップに

死亡遊戯のポーズを取った写真に何やら中国語と思われる漢字が印刷されてあって

かっこいい!と思いました。 が...しかし!。もち特集本ではないので、

その他映画一般も載っている訳で、そのロードショー誌1974年12月号には

映画「エマニエル夫人」のカラーグラビア特集?みたいなものがあって

そのまぶしい肌色(!)は田舎の純情中学生(?)には ちょと刺激的で、

おとなの映画雑誌という印象は避けられませんでした。

先の「空手アマゾネス」攻撃に続き「エマニエル夫人」攻撃にも屈するのか

おおいに迷っていた訳です。

しかし、ブルース・リーファンたる者 毎回の攻撃に退散してる様では男ではありません。

ロードショー誌12月号をむんずとつかみレジへと運んだのでありました。(昔汗)

「ありし日のブルース・リー」のグラビア写真もよかったけど、

やっぱ死亡遊戯の漢字入りピンナップが最高で、思わず額に入れて飾りました。

それが、その後悲劇を呼ぶ訳ですが、その話は後ほど紹介しようと思います。

で、これは最近 某オークションで気が付いたのですが この死亡遊戯の漢字入り写真は

香港G・ハーベスト社が出版していた雑誌に載っていた物の転記だったという事です。

その某オークションで私は一番前の席に陣取ってたのですが(一個も入札せず)、

かなり高額からスタートした1973年刊?の香港雑誌の中身をパラパラと開いて見せた時、

なつかしのその死亡遊戯の漢字入り写真が見えたからです。なんかつまらん事ですが

私にとって思い入れのあった写真だったので感動でした。(にもかかわらず高額で手出ず)

ちなみに、月刊ロードショー誌は初めて購入したこの1974年12月号の次の号、

すなわち1975年1月号を買いそびれてしまった以外(結局”攻撃”に屈したのか!?:笑)

1975年2月号より1980年春頃まで購入し続ける事となりました。





李小龍的熱狂共走朋友との遭遇


この1974年の夏、李小龍熱を発症以降 いつの頃からか、

同じブルース・リーファンの道を歩む事となる戦友?が出来ていました。

「怒りの鉄拳」同伴で「アマゾネス」攻撃を嫌ったY君ではなく

同じく学校で同クラスのYH君でした。きっかけは詳しく覚えていませんが、

わたしがY君と「怒りの鉄拳」を見に行った後、

お互いに李小龍熱を発症している事が分かって親しくなりました。

まぁどーでもいい話ですが、

その当時YH君は、私のように保守?的で目立った事など出来ない少年とは違い

時折とっぴおしもない事もやってのける様な、ちょっと変わった雰囲気を

持った少年でしたが、ブルース・リーにおいてお互いウマが合っていました。

学校ではあまり記憶がありませんが、放課後 お決まりのグンフーごっこや

お手製のヌンチャクを振り回したものです。

勿論グンフーごっこでは 二人とも李小龍になりきってスパーリング?を

やっていたものですが、ある時YH君が両手で手技ばかりを出しそれを私が

受けるつど 動作をお互い止めるといった型を繰り返しやっていた所、まさしく

ブルース・リー映画以外の香港クンフー映画の型を思いおこさせて

ブルース・リー スタイルとの違いを体感出来、すごく感動した覚えがあります。笑)

(やっぱブルース・リー スタイルは別格や...と言う意味で)

で、この当時からかなり長い間 ブルース・リー映画以外の香港クンフー映画には極端なまで

拒絶反応があって、その原因となった”ブルース・リー以外の香港クンフー映画”を

いつ何処で何を見たのかも完全に記憶から抹消してしまっていて覚えてない程です。

今にして思えばもったいない話で、もっと懐を広く当時の香港クンフー映画全般を

見ておけばよかったと後悔してますが、若気の至りと申しますか ブルース・リーしか

目に入ってませんでしたなぁ。

またヌンチャクといえばあの鎖の部分が映画と同じ様な物がなくてかなり悩んだ

覚えがあります。そして鎖があってもヌンチャクと鎖の接続部に鎖がからまってしまい

スムーズに振り回せない...などなど。(結局解決したんやったっけ?)


と言う訳で、ブルース・リー第3弾「ドラゴン怒りの鉄拳」公開後の

かなり遅い時期からではありますが、李小龍ファン道に入り

戦友?も出来、お決まりのパターンを歩み始めたのですが

わたしは生まれつき根がぐうたら人間で呑気なお気楽ファンでありましたから

後に聞く所の、ブルース・リーとの出会いから空手を習い始めたとか

アクションスターを目指し映画界を夢見たとか、その後の人生を大きく変える様な事は

当時から根性もなかったし、いっさい考えも付きませんでした。

ただ限られた本数の”ブルース・リー映画をいっぱい見たい”単にそれだけでした。

なんせ1974年の暮れでまだ一本のブルース・リー映画にしか

遭遇出来ていませんでしたから...。


李小龍的遊戯之旅はまだまだつづく。



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