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1974年の暮れ

ロードショー誌で紹介されていた”ありし日のブルース・リー”という映画が

隣り町の映画館で公開している事は知ってましたが、これまた、見るまでには至らず。

私は、ひたすら新作「ドラゴンへの道」の公開を待つ体勢に入っていました。

毎日「ドラゴンへの道」のEPレコードを聞き倒しながら、まもなく遭遇出来る

私にとって2本目となるブルース・リー映画に思いを馳せていたように思います。

またこのEPの怪鳥音が偽モノだった事などつゆしらず。ちょっとネコみたいな所はあるけど

音声処理かなんかを施してあるんだなあ程度にしか思ってませんでした。





明けて1975年の1月

そしてようやく待ちに待った1975年の正月第2弾公開、

「最後のブルース・リー/ドラゴンへの道」が封切られました!。

私的には確か...進路を分けるようなわりと複雑な時期だった気もしますが、

朋友の李戦士?YH君の後押しもあって、公開中毎週のように見に行った様に思います。

勿論田舎であった事もあり併映もあった訳ですが、見に行った日は1日映画館に居て、

「ドラゴンへの道」を3回は見ていました。その割りに併映の映画の題名や内容について

ほとんど覚えていません。確か「ドーベルマンギャング2」だったと思うのですが...

正直、見る回を重ねるうちに「ドラゴンへの道」の観賞法としては、兎に角ブルース・リーの

アクション場面になると身を乗り出して見るが、それ以外はそれなりに見る...みたいな、

ふとどきな感じにはなっていました。

やっぱり「中国拳法を見せてやる!」と最初にギャング?達に技を振るった時の

私の心の中でのよっしゃ〜の叫びと背中にスーっと走るモノやニヤっとした感じは今でも忘れられません。

結局公開中3回は見に行き、「ドラゴンへの道」は計9回ほどは見ました。^^


この頃は映画館にカメラを持って行くなどと言う技にはまだ気付かず、公開後はサントラLPを買い

「怒りの鉄拳」と同様、何度も音だけによる頭の中のロードショー公開をしてました。

程なく雑誌ロードショー誌で暗い感じのモノクロ写真と共に、ブルース・リー映画が3月に公開!。

私にとって3本目のブルース・リーを、”最後”の筈だった「ドラゴンへの道」に続き

直ぐに見れるって事で、嬉しい驚きに心踊りました!。

それはアメリカ時代出演したTVシリーズ「グリーン・ホーネット」を編集したモノでした。

私はアニメ版の「バットマン」なんかは知っていましたが、この「グリーン・ホーネット」について

本などでブルース・リーのアメリカ時代についても読んでいたはずにもかかわらずさほど気に留めておらず、

改めてブルース・リーってさすが!若い時に米国ですでにアクションやってたんや〜とか妙に感心し、

同時に昔このTV番組を見てなかった事を本気で悔やんだりもしました。

YH君は得意げに番組の見覚えを自慢していました。

そして、公開!。正直言って私的には2本だけだったとは言え完成されたブルース・リーを見た後での、

暗い画面が多く、マスク姿が多い映像にはビックリする事は残念ながらありませんでした。

それより同時上映の「ドラゴン拳法」という短編が、眠っていたフィルムの初公開って事で、

よくこんな映像が残ってたもんやなぁ〜と、映画の内側を覗けた様な気がして結構感動してました。

でも、「ドラゴンへの道」ほどは映画館へ通った記憶はないです。

そしてこれで、ブルース・リー映画の公開は一応終息の時が訪れ、

私は依然、肝心の「燃えよドラゴン」と怪鳥音が無い「ドラゴン危機一発」(サントラLPは購入)を

まだ見ぬまま、ブルース・リーブームのゆるやかな終わりを迎えていきました。






1975年の夏〜秋

この夏、「燃えよドラゴン」でのブルース・リーの肉声を網羅したLPが発売!。

当時から、ブルース・リーの本当の声は、この「燃えよドラゴン」とアメリカで出演したTVだけ...

って言われてて、勿論この「燃えドラ」のLPも購入。想像のロードーショーは上映してました。

ただ、セリフ中心って事で効果音などが無い部分もあり(これはこれで貴重ですが...)、音的に

ちと寂しげなLPであった様に思います。

そして、秋。

この年の始め「ドラ道」が初公開されていた隣り町ではない、もう一方の隣り町の映画館(二番館)で

再び「ドラゴンへの道」と「ドラゴン拳法」(併映は「トロン」?)を上映!。

またもや足しげく映画館通いを始めました。今回は二番館って事で、初封切りの時より多少フランク?な

雰囲気なので、初めて映画館にテレコを持ち込む事に挑戦しました。(^^)/

それは土曜日の学校帰りだったと思います。映画館の最前列の席を確保して、持ってきたテレコを

スクリーン脇の舞台に置き、録音開始!。しかし、土曜日の午後って事で近所の小学生達も結構来ていて、

上映中でも騒ぐ騒ぐ!〜。その叫び声も入り放題でしたが、この時録音した「ドラゴン拳法」は、

その後、私的には結構貴重でした。(「ドラ道」の全編録音は出来なかった様な記憶が...?。)

また、二番館って事で「ドラ道」などはフイルムが傷んでいて、所々カットされてしまっている場面が

あったのですが、映写室脇のゴミ箱でその傷んでカットされたフイルムの一コマを見付けたりして

週末はYH君と映画館に入り浸り状態でした。

そして、その上映期間も程なく終了。別冊本やサントラレコード、そして新たに加わった録音テープ

というアイテムで、まだまだ李小龍生活は続いていきます。

確かそんな頃!、以前にも記した〜額に入れて飾ってあったRS誌'74年12月号綴じ込みピンナップ

(中文入り「死亡遊戯」構え写真)に、YH君からトレードの申し込みが発生しました。

当時、YH君は私と違って、スクリーン別冊などに強く、しかも同じ本を何冊か購入し切り抜きなんぞも

惜しげもなくしていましたので、本体から離れた写真など(別の意味で貴重)も持っていました。

で、結局YH君の押しに負けてしまい、私のお気に入りで以後再び手に入る事の無い?

ピンナップを手放してしまいました。(’’; 実際の所何と交換したのかも失念...。

こんな感じ...WANTED!

そして、1975年も11月がせまった頃、RS誌などで再び「燃えよドラゴン」のカラー写真が誌面に踊りました。

それは、'76年正月映画として「燃えよドラゴン」がリバイバル上映されるという、

私にとって待ちに待った嬉しい知らせでありました。

やっとブルース・リー映画の最高峰(一般的にいわれる...)に遭える...。やった〜っ!!!。

兎に角私にとって「グリーン・ホーネット」を含め4本目の李小龍映画がようやく見れる訳です!。




1975年、年末〜

それはいつもの隣り町(県庁所在地)の映画館で、同時上映は「ドクサベージの大冒険」でした。

私は、勿論これまたいつもどおりYH君と見に行きました。

確か記憶では、その上映館のリニューアルオープンの柿落としが「燃えドラ」上映って事で、

真新しい映画館で、リバイバルとはいえ立ち見が出るほどの満員!、異様な熱気の中での観賞となりました!。

リピーターの人達もいたと思いますが、私と同様、初公開時見逃した人々がこぞってやって来た感じでした。


待ちに待った「燃えドラ」初見の感想は...、

う〜ん、映像は奇麗だしスケールもあってアクションも凄いんやけど、

なんかちょっと物足らない感じがしてしまいました。

それは、これ以前に観た香港製のB・リー映画と違って、完全主演映画っぽくないのと、

何より李さんが寂しいそう...というか、怪鳥音なども他の映画に比べて絞り出すような声で、

まぁよく言われる”悲壮感”つーぅやつですか、それが私には”痛く”感じました。

ストーリー的にも、いろいろと解釈はあるでしょうけど、J・サクソンがギロチン上のネコになぞって

冷血にはなれない・・みたいな感じで助けるというか仲間になるくだりは、別に仲間になって

貰わなくてもいいのに!って感じです。それに比べJ・ケリーはもう一人外出をしてた

リーの名を言わずに、頭を鉄手で叩き割られて壮絶な最期を遂げたのには、

潔くてカッコいいと感じたモンです。

ともあれ、やっと「燃えよドラゴン」が観れるこの機会に、一回の観賞で納得出来るはずもなく

勿論映画館通いを始めました。

今回は、既にブルース・リーの肉声を網羅した「燃えドラ」のLPがあった為、テレコではなく

いよいよカメラ持ち込み作戦を決行しました。しかも当時学生の身分では少々値段は高いけど

カラーフィルムなんぞも1,2本交えての撮影です。(基本はモノクロフィルムでしたが)

勿論映画館でそれが許される事ではないとは知りつつ、父の古い1眼レフカメラを持ち出して、

映画館に行く度に、一回目の観賞でシャッターチャンスに目星を付けておいて、次の回で撮影する...

といった事を何度か繰り返しました。

今思うとそこそこのお客さんの中で、しかも音の大きい1眼レフカメラのシャッターを押すとは、

若気のいたりですなぁ〜、今じゃ出来ましぇん...ていうか必要ないですな。(^^;)

そして、写真を撮ればその後、現像〜焼き付けも必要となる訳で、これがまた今の様に

”55分間仕上げ”とか、デジカメで自分でプリントとかの時代ではなかったので、

ヒマも費用も馬鹿にならん物だったように思います。

しかも撮影失敗なんかも当然あって、リーさんを撮ったつもりが、ハンの戦闘員?が写ってたりと

なかなか楽しいモンでした。そういえばYH君のカメラはハーフ撮りとかいって通常の倍の枚数撮れるやつで、

バシバシ撮ってたなぁ...。勿論取れた写真は、同じ瞬間にシャッターを押したものは2枚と無く

似通ったショットはあっても基本的には全て未公開写真!?、

YH君のものとよく交換などもしてました。

そしてそうこうしているうちに、興奮?の「燃えドラ」リバイバル公開も終了!。


この年(1976年)はRS誌は、毎号”未公開アルバム”みたいなモノクロ特集はあったものの、

夏に別冊が発売されたあとは、リバイバルで再び付いた熱狂も急速に冷めていった様に思います。

あとは未完の遺作「死亡遊戯」を残すのみとなった訳です。

しか〜し!、私はまだ「ドラゴン危機一発」という未見の”大作”を抱えていました。

う〜む、いつ見れるんやろ〜!。




1976年後半〜1977年

その出来事は、「燃えドラ」丸ごと収録の2枚組みLPが発売されて、そんなに経って無い頃起こりました。

ビデオが無い時代、このレコードは最大の宝物となっており毎回大事に磨いては聞いていたものです。

当時私は、卓上プレーヤー(一応ステレオ)しか持ってなくて、その日も李小龍朋友YH君と自宅の板の間で、

2枚目のレコードを聞いて脳内上映会を催してました!。

丁度「地下室」で李アクションが炸裂している時、何かの拍子に興奮した?YH君の手

(足ではなかったと思う..まぁどっちゃでもいいんです)が

なんと!卓上プレーヤーにも炸裂!!!。「あっ!」と叫んだ時には早送りされた場面の音が流れていました。

恐る恐るレコードの表面を見ると...、案の定レコードの溝以外の斜めの溝がっ!!!。(泣;

ちょうどボロやんが金的をくらい、Mr.ハンが戦闘員にリーとローパーに”かかれ〜!”と叫び終えて

最初のリーさんの怪鳥音あたりから”プチプチ”と〜、ハンを追っかけていく場面くらいまでノイズが発生!

呆然としている私の脇で当のYH君はしきりに、負傷兵に言うが如く ”傷は浅いぞ”攻撃を連発!。

2枚組みLPのわりには多少割り安感はあったものの、当時の我々にとっては容易に出せる金額でもなく(\3800だったかな)

当然”弁償しろよ!”とは言えず、その後長い間このレコードを見たり聞いたりする度に心の傷が痛んだもんです。

ちなみにこの時この件でYH君と仲たがいしたって事は無かったです。この数年後から諸事情で20年以上会っていませんが...。

また80年代以降はレコードを聞く事もなく、逆に遠い出来事の記念碑的円盤となりラックの奥に眠っています。

近年、結構状態のよさそうなこのレコードの中古を安価(確か..\1000位だったか)で発見&購入して傷は癒されました。^^/

って購入後も未だに聞いた事ないですが、トラウマ脱出にはなりました。

そんなこんながあって、忘れた頃にロードショー誌に「死亡遊戯」撮影再開の 記事が載ったのは'77年の秋だったでしょうか。

まぁこれまでにも何度か同様の記事はありましたので、なんか凄い期待や心踊る様な思いをした覚えもなく

1977年も過ぎていった様に思います。




1978年3月

そして1978年3月23日(木曜日)!、突如降って沸いた様に、TVでB・リー特集が放映されるって事で、

録音用のラジカセやブラウン管撮影用のカメラを準備し、久々の興奮の中放送の当日を迎えました!。

その番組とは、日本テレビ系列で木曜日の夜放送されていた「木曜スペシャル」という番組で、

毎週様々なテーマで特集を組み放送されていたのですが、それは”空飛ぶ円盤”から芸能ネタ?等々、

いろんなジャンルに及んでたと思うのですが、今回はブルース・リーの「死亡遊戯」特集って事で

私的には、いい意味晴天のヘキレキって感じで、この時初めて「死亡遊戯」が完成した事を知った様に思います。

兎に角!この番組では、生まれて初めてあの写真でしか見た事のなかった、黒のライン入りの黄色のトラックスーツを着た

動く李小龍を目の当たりに出来、感動のあまり体がガクガクした覚えがあります。

しかも映像的にも結構長かったので、これだけTVで見せてしまっていいの?って感じでした。

まぁ実際は、興奮と写真撮影や録音のCMカットでそんなに味わっている余裕も無かったのが正直な所で・・・^^/。

まだ家庭用ビデオが一般的に普及してなかったこの時代、これまでにも映画館ではスクリーンの李さんを何度か撮った事はありましたが

本格的に李迷になってから初めてのTV特番で、ブラウン管の中の李さんをカメラに収める事に必死で

ファインダー越しに見る場面が多かったのが、ちょっと残念だったかも・・・

あとは録音した音と出来あがった写真を頼りに、繰り返し番組を脳内リピートしたものです。

「死亡遊戯」以外にも他の主演映画からのハイライトやこれまた動く映像では初見の「ロングストリート」などなど

次から次と繰り出される映像攻撃はホント失神ものでした!。

(ちなみにこの20年以上のちに、番組のビデオを入手する機会があり、その当時の興奮を甦らせる事ができました。感謝感謝^^)

そして程なく発売された「ロードショー」と「スクリーン」両誌は、「死亡遊戯」の特集が組まれていて

迷わず両方共購入しました!。(「ロードショー」は付録に小別冊があったので2冊買いました^^)

そして一ヶ月あまり・・・、いよいよ待望のゴールデンウイーク前週がやって来ました!。





福井では「福井みゆき座」と「テアトル福井」の2館やってたのかなぁ???(^^)、
はっきり覚えてませんが、チラシは手元に2種残ってます。
ボクは「テアトル福井」派でした。

確か記憶では、この公開前週の土曜日のオールナイト上映分が先行公開だったような気がします。

当時私の足と言えばバイクだったもんで、夕方から 隣町(怒りの鉄拳、道 上映館がある町)まで飛ばしたもんです。

そして、「死亡遊戯」初遭遇!(同時上映:『カタストロフ』 ^^;)。

兎に角、もう見られないと思っていたブルース・リーの新作を 映画館の大場面で見れるって事で、

映し出される映像を夢ごこちで見てました。

ストーリー展開はなかなかうまく出来ているとは感じましたが、

中盤のロッカーでの代役リーさんの連続蹴り(編集マジック?)に笑い、 これは本物リー映画はありえないなぁとか思ってました。

それから本物リーさんが出てきて画面の質感が変わってからは、鳥肌と うれしさから来る何故かニヤけが止まりませんでした。

あと、エンディングの唱(コリーン・キャンプ)に次々と映し出される、リーさん作品の名場面にも鳥肌!。

勿論、一回の上映で満足する訳もなく、

オールナイトで朝まで見続ける訳ですが、2本立てのもう一方『カタストロフ』も見続けなければならない訳で

夜中の観客の減った館内でこの”世界の大惨事”を繰り返し見るのも 結構、パワーが必要でした。

そして、本命の「死亡遊戯」も、初めのうちは気づかなかった部分も見えてきて、


そのうち、塔内(レッドペッパー階上)での本物リーさんの出番部分に集中するのと、

それまでの場面では代役リーさんの間に時折出てくる別作品からの本物リーさんのショットを見逃さない様にと

気の入れる所と気を抜く所を使い分けながら見れる技が備わってきていました。

勿論その後も確か、土曜日毎にオールナイトで映画館に通い、

今回も「燃えドラ」リバイバルの時と同様、スクーリーンをカメラに収めていました。

そして朝5時頃、辺りが明るくなりかけた街から、バイクで自宅に帰るといった事を

何週間か繰り返していたような・・・。

そして、その帰り道の頭の中ではコリーン・キャンプが唄うエンディングテーマ曲が 流れていて、

今もコリーン・キャンプのあの曲を聴くと、バイクに乗って走った夜明けの景色が

頭の中に甦ってきて、懐かしく思います。そして何故か、なんかセツナイなー。





1978年後半

そうこうしているうちに、当時は実感がありませんでしたが、

今思えば、奇跡のような「死亡遊戯」の公開も、過ぎ去り、

私は、この時点で「危機一発」のみ、一度も見てない状態が続いてました。


世間では、この「死亡遊戯」の公開で新たなプチ?・ブルース・リー・ブームみたいなモノが

到来してたのかもしれません。


その恩恵として、この年の秋だったと思いますが、

毎月、月間ロードショ−誌に掲載されていた”全国名画座上映作品予定表”みたいな所に、

「ドラゴン怒りの鉄拳」と「ドラゴン危機一発」の2本立て上映予定が、金沢の名画座の蘭に記載がありました。

金沢には友人が大学生として住んでおり、また、昔の朋友であるY.H氏も就職していた地であり、

バイクでも行ける距離だったので

まだ見ぬ「危機一発」を観賞すべく、即、遠征を決めました。

記憶は定かではないですが、地元の友人とふたり、バイク2台で、私はテレコ持参で金沢へと向かいました。

映画館内は、そこそこお客さんが居たように思いますが、録音だけはしました。

何故か現在は「危機一発」ではなく「怒りの鉄拳」の録音テープは残っています。

初めて見る「危機一発」の印象は、なんとも李さんが若々しく、前半は主役級ではないので、

ちょっと物足りないなぁ・・・という感じだったと思います。

でも、やっと見る事の出来た喜びと達成感?は感じていました。

確か、2回づつは観賞したと思います。

ただ、バイクでの遠距離遠征ですので、帰りの運転もあったので、

その思いをその場でゆっくりひたれる状況ではなかったような気もします。

まっ、私的には兎にも角にもビデオのないこの時代、漸く「危機一発」から「死亡遊戯」までを 制覇出来たのでした。

でも、月間”ロードショー”誌などは、紙面からリーさんは薄れていきました。

その後、地元の2番館でも「死亡遊戯」の上映もあったと思いますが、

今思えば、私的には社会人一年生の夏から秋にかけてのこの時期、

奇跡の「危機一発」鑑賞や「死亡遊戯」の残像に、思いっきりひたる感じではなかった印象で

1978年は暮れていったように思います。






1979年

この年初めに、”ブルース・リー電光石火”というTVシリーズ「グリーン・ホーネット」の

劇場公開用編集版の第2弾が公開され、勿論久々の李さんに吸い寄せられるように映画館へ行った訳ですが、



なにげなく見ていた同時上映の「Mr.BOO!」のおもしろさに衝撃をうけました。

「電光石化」の方はというと、相変わらず(←あたり前)暗い映像で

クールではありますが、マスクを掛けた若い李さんが少ない出番の中、ほんの時折確認できる程度・・・。

勿論、私的には初めて見るリーさんの表情やアクションもあったのですが、

「Mr.BOO!」の、明るい映像やのうてんきな雰囲気と、ほとんど初めて聞く広東語セリフの軽快で不思議なリズム、

そして、厨房でのソーセージ・ヌンチャクなどのブルース・リーねたに代表される、そのコメディー性に

深くはまった感じでした。

更に、ちょっと人情を織り交ぜた結末と、これまた軽快な広東語主題歌!などなど、

「電光石化」は、今回はモノクロフィルムではありますがカメラを持ち込んで撮影はしましたが、



それよりあの「Mr.BOO!」の主題歌が聞きたくなって、写真の現像や焼付けより先に、シングル・レコードを買っていました。

これ以前はおそらく、ブルース・リー映画以外の香港映画を劇場に見に行く事はほとんどなかったと思うのですが、

(いや、これまでに3Dの台湾電影「空飛ぶ十字剣」だけは見にいったっけ)

私的には、この「Mr.BOO!」をきっかけに、後に公開されるジャッキー電影や「ブルース・リーを探せ!」

はたまた、「Mr・ノーボディー/フラミンゴ殺法」など、この年公開された香港(台湾?)電影をも見に行けたのだと思います。



また、香港映画に限らずこの頃からよく、ひとりで映画館に映画を見にいったり、

窓口にチラシをもらいに回ったりもしたもんです。

ブルース・リー映画の新作がもう望みようもなかったり、一般の映画雑誌でも、

もう李さんの写真や記事が少なくなった、その穴埋めとういう意味合いだけではなく

大袈裟に言うと、私的には当時、この「Mr.BOO!」から、新しい映画との対し方が始まった気がします。



でも、第2弾の「Mr.BOO!インベーダー作戦」は、

「Mr.BOO!」の衝撃?が強すぎて、思いっきり期待はずれで物足りなかったのを覚えています。

第3弾の「Mr.BOO!ギャンブル大将」は、見に行ったかどうかも記憶があいまいです。

ジャッキーは、2本とも見に行ったのをはっきり覚えてますが・・・。





それでも龍的には、ビデオがまだ無かったこの時代、

6月には「マイ・ウェイ・オブ・ カンフー」という

レコードが発売され、「ロードショー」誌にはその一部を収録したソノシートなどが付録として付いたりして

李さん旋風の最後の風の一端は吹いていました。

勿、レコードは購入しましたが、「Mr.BOO!」公開後の、李さん肉声の広東語は不思議な印象を覚えています。

今思うと、「Mr.BOO!」の広東語公開が、「マイ・ウェイ・オブ・ カンフー」の日本発売を

少なからず後押してたのかな?と感じます。






で、この年は、「ロードショー」誌の”ブルース・リー家族アルバム”で過ぎ去っていったように思います。






1980年

この頃、B・リー ファンを牽引し始めたのは、”イエナ”という

洋書を輸入販売する会社で、当時の香港の李小龍雑誌を販売するようになり

私は、月間ロードショー誌に物足りない分を埋めるがごとく、香港誌を購入し始めました。

それは、最終的にコンプリートには壮大な冊数になるものだったので、

確か、最初は購入を躊躇していたような記憶があるのですが、

結局その後、 この雑誌タイプとポスターマガジンタイプをせっせと発売順に、

翌年の1981年までかけて集めていきました。

しかし、今思えば当時は、冊数もあり、集めきるのが目的になっていて

1974年頃のようにそれほど多くない特集雑誌を、繰り返し見る・・

という感じではなく、次々と未購入を埋めていく感じだったかもしれません。

また、イエナが主催するファンクラブにも入会し、

送られてくる会報も楽しみの一つにはなっていたものの

「死亡遊戯」の公開からも一年以上、私自身の生活リズムも益々変わりつつあり、

以後”イエナ”という盟友はありまいたが、

ゆるやかに、熱狂の渦から醒めていく入り口だったと思います。



私的には前の年('79)の秋から、この1980年の春、いや夏にかけて いろんな変動があって、

時折、「イエナ」から発売される数冊の雑誌を買い続ける・・・といった程度になっていきました。


ただ、夏にその「イエナ」のファンクラブがブルース・リーの7回忌を東京で開催するという事で、

旧友でもあり李朋友で共にファンクラブに入っていたM氏と、東京まで行って

この年忌?に参加しようと言う壮大?な話になり、列車を乗り継ぎ、新幹線に乗り込みました。

確か、泊まる所も考えず適当に野宿するつもりでの出発でした。



残っている写真(M氏撮影)を見ると、「千代田区公会堂」で開催されたのですが、

何故かあまり記憶がなく、どんなイベント内容だったかも不思議とほとんど覚えてないのです。

 

何か、今で言うジー・クン・ドーのデモやそっくりさん大会みたいなものもあったのでしょうか?・・・。

会報のレポートみたいなモノを今度見てみなくては・・・。


はっきり覚えているのは、昼間、武道館や皇居をブラブラしたのと、

この会場を出たあと、オールナイト上映の映画館を探したけれど探しきれず

無謀にも皇居に舞い戻り、ベンチで夜明かしをしようとして、巡回の警察官に 職務質問され

提示した運転免許書から無線かなにかで照会された後、ベンチから追い払われ

東京駅へは行ったものの、夜中には駅からもシャッターの外に締め出され

結局そのシャッター前で夜明かしをした〜

という当然といえば当然の、悲惨な思い出だけでした。

若さが成せる無謀でしょうか、今なら考えられませんが。



そしてこの年、1980年は、

レノンのカムバックとリーさんと同じ突然の他界という 大きな出来事で暮れてゆき、


私の龍熱は冬眠時代へと入っていきます。
 m(_ _)m




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