越前府中の昔

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紫式部公園より 越前富士(日野山)を望む

1870年(明治3年)旧暦8月7日、

越前府中の町内は、農民 町民が総出で緊張した状況を迎えていた。

この日 東京より福井へ護送されてくる府中町民を、福井に渡すまいと

街道沿いに民衆が集まってきていたのだった。





そもそも、越前府中は、越前国の真ん中に位置し、

北陸(越の国)への玄関口にあたり、都から越の国方面への要所であった。

大和時代 国府が置かれ、国分寺も建てられた。

その後、府中と呼ばれるようになる。

平安時代、父の国守赴任にともない 紫式部が滞在していた事もあった。

戦国時代には、越前一向一揆と信長軍との戦いの舞台にもなり

信長軍の勝利後は、一向一揆の残党狩り等で、府中周辺は相当に荒れ果てた事もあった。

その後、のちの加賀領主 前田利家が(府中三人衆の一人として)府中に居城し、

秀吉と柴田勝家との戦い(賤ヶ岳の戦い)では、この府中にて中立の立場 (どちら共戦わず)を取った。


そして、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利の後、越前は家康の次男 結城秀康が領し

その時 家康の命により結城秀康が15歳の時から、これに仕えていた

「本多富正」が福井藩付け家老として同行し、府中を領した。

その後、府中は維新までの260年間、一貫して本多家に治められる事となる。

しかし、越前府中は福井本藩が家老の本多家に与えた領地であり

「藩」の形態をとりながら、本質は藩ではなかった。

それ故、幕府や福井本藩からの圧政?からも比較的のがれられ

江戸期をとおして、保守的だが平穏であったと考えられる。

しかし、明治維新時の混乱の中 おそらく全国各地でも形に違いはあるものの

勃発したであろう事件の一つが、この地でも起るのである。

これを、「武生騒動」と呼ぶ。




越前府中(福井県 旧武生市:たけふし、現在の越前市)

町の南北に日野川が流れ、それと平行して北陸街道が通る。
福井平野の南端に位置し、東西および南を山に囲まれている。
その一つに、街の南東に頂く越前富士=日野山(写真)がある。
各地にある"**富士"の名の通り、この山も裾のが富士の様に長く美しい山である。




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