越前府中騒動

騒動の発端


1869年(明治2年)6月廃藩置県が行われ、越前府中(武生)は旧福井藩の

支配下となり、旧藩主 松平茂昭が藩知事に任命され華族に列せられた。

府中の旧家臣や領民は、福井藩筆頭家老であり府中領主本多家も当然華族に列せられる

と考えていたが、本多家は家臣と同格の士族にとどまった。

(この時、全国では大名の家老格十五家が、大名と同じ華族の処遇を受けている。)

本多家が家臣と同格の士族であれば、その旧家臣の地位や俸禄は非常に限定された

ものとなり また、政治についても旧福井藩士の言う事を聞かねばならない。

旧領民にとっても260年続いた本多家支配から旧福井本藩の支配になり、

なにかと圧制が多くなるのでは?という危機を感じていた。

直ちに府中領民は、福井政治局に本多家の家格昇格の手続きを願い出たが

一向に受付ようとはしなかった。

福井藩主 松平家は政府に積極的な働きかけをするつもりはなかったのである。

そもそも、福井藩からすれば慶長以来 家老の領地という事で自藩の直接支配から漏れ

この時期に支配下になろとも府中との間には、長年の確執があったと思われる。
(昔、富正は、本多家の”藩”への昇格の誘いを辞退した事もあった)


いよいよ、府中藩旧家臣 領民の不満は日に日に高まっていき このままでは

暴動になりかねないと(結果的に起こってしまったが)、旧家臣団の一部が中心となり

騒ぎが起こる前に、本多家の華族昇格に向けて本格的な運動を始める事とした。

昇格運動の総参謀長に旧府中藩家老の松本勝基(晩翠)を、 そしてその補佐に

晩翠の実弟で府中藩儒であった 竹内家の家督を継いだ 竹内勝郷(團:まどか)を選び、

まずは東京の岩倉家、東久世家 両家を中心に運動を展開する事とし、

同年(明治2年)12月5日 旧家臣の高木太八郎と山崎悠を東京へ向かわせた。

また、増永俊岡をはじめとする町民有志他数名も東京民部省への嘆願の為、

その方法等について、旧家臣で坂本龍馬の海援隊にも籍を置いていた 関竜二(義臣)や、

竹内團、谷口一学らと協議し、翌明治3年1月21日に増永俊岡、亀吉屋金平、

高瀬村六平などが東京へ出発した。

そして町内十一ヶ寺総代とし僧侶他も上京するなど、

昇格運動は、三人、五人とグループを組んで上京し、千住(足立区)や坂本町(台東区)、

馬喰町 本石町(中央区)などの安い料金の宿に一ヶ月、二ヶ月と寄宿してお互い

連絡をとりあい民部省や政府要人に嘆願していったのである。

これは、本多家の家格昇格運動に旧家臣のみならず旧領民も大きく参加していった

ものであり、先に述べた廃藩置県による旧福井藩の支配への不満が第一の要因では

あるが、この前年の明治2年の凶作による経済的混乱も拍車をかけ

この様に旧藩士だけでなく旧領民もが奔走する運動になったと言える。

しかし その家格昇格運動は、はかばかしい成果をあげられずにいた。

そこで明治3年4月、総参謀長の松本晩翠が旧臣 土生多忠・忠見伝三とともに上京し、

東京での民部省へのよりいっそうの運動を展開し、

府中では明治3年5月、同じく旧家臣 佐久間直・若代老之助・八木静馬 等

49名が連名にて改めて(福井)藩知事に対し嘆願を行った。

ところが逆に「法を犯し、密かに参上し民部省へ越訴を企てている」と

前記 代表ら者数名に二十日間の謹慎処分を命じ、

旧福井藩との対立は益々深まっていったのである。

そんな折りの明治3年6月はに、上京していた松本晩翠がかねてより親交のあった

北海道開拓長官 東久世通喜氏に従い北海道に出発したのである。

これは晩翠にして東京での家格昇格運動の限界を感じたものからの行動ともみれる。

この段階で旧家臣団の参謀長である松本晩翠が事実上抜けてしまい

家格昇格運動は、町民中心の形になっていったと言えるかもしれない。

そして、明治3年7月18日にはこの時東京で嘆願運動をしていた浄秀寺住職智言に

民部省より呼び出しがあり嘆願に対する次のような返答があった。

「御維新となり藩知事を置いた以上、何度嘆願しても許されない。国の政治の不都合なら

聞くとも、旧君に政治をさせようとは心得違いである。この事を何回言い聞かせても

なお嘆願するのは以ての外である。但し今回は格別のお慈悲をもって

福井出張所預けとし、代表者六名には七日間の押し込み(謹慎)仰せ付ける。」

これによって、同日 東京詰めの福井旧藩 岡島力太郎は、民部省にて先の六名

(浄秀寺智言・喜久右門・太三郎・藤平・松衛・喜三郎)を引き取り福井出張所

預かりとなり、7月21日には二人の役人に護衛され福井に向け東京を出発した。



騒動の勃発


府中(武生)では、六人が福井に護送されていると言う話はすぐに広がり、

"東京で嘆願を行った者は全て福井役人に捕縛される"と言ううわさが飛び交っていた。

そして、8月5日護送の一行が今庄に着いた事が府中町内の知る所となり騒然となった。





何としても護送の六人を奪い取り福井に渡すまいと有志が集まり相談をして

「男たる者は全部集合して松森(地名)へ出迎うべし」と町内に呼びかけた。

さらに、護送者の武生への引き渡しを武生民政寮に頼み、

それがだめなら福井表へ願い出ることを決定した。

一方護送の役人も武生の不穏な様子を察知して、町内の状況を探りながら

8月6日には今庄からほどなく進んだ、武生の手前 鯖波に宿泊し、

いよいよ8月7日、武生に入り亀屋町の川端茶屋で休憩を取った。

しかし、護送の行く手の街道にはぞくぞくと群衆が集まりその簑笠で覆いつくされ

また、旗を立て見張り役を置き 口々に”福井に渡してはならぬ”と叫んだ。

群衆の中には福井に親戚のある家に草履や石を投げる者も現れ、

いよいよ暴動の様相を呈してきてしまったのである。


明治3(1870)年8月7日午後


そこで、茶屋で休憩を取っていた役人は護送の六人を連れ裏道を通る事としたが、

群衆の見張り役に見つかり、町民 農民たちは「今般大政官よりお召捕りの者を、

何故御道筋を通らず裏道をこそこそ行くか、役人諸共逃がすな」と言って騒ぎ立てた。

その為、奉行と町役が相談して当分の間 室町の旅籠屋に留め置き、

福井からの迎えの役人を待つ事にした。

この騒ぎを聞いた本多副元も傍観できずに出馬し、群衆も殿様の御出馬だと道を開いた。

副元は「何の願いか知らぬが暴動は政府に相済まぬ。何なりと聞きおき取り計らうから

静まれい」と言い、一同は屈伏し騒ぎは一時治まったかに見えた。

ところが、夜になってにわかに夕立が降り出して たまりかねた一団が

「役所に乗り込もう」と言って民政寮に行き、門前で「願いの趣あり、取り次いでくれ」と

騒いだので、門前で乱暴する者として四、五人を捕らえ門内に入れた。

それを知った群衆は、「役所が良民を召し捕った」と どっと詰めかけ表門の扉を

棒で打ち壊し 石を投げて乱入したので、詰めていた役人は裏口から逃げてしまい

役所の中は空となり、勢いに乗じて建物や器物を壊してしまった。

これがきっかけとなり、群衆心理はもう誰も止められない状況になっていった。

暴徒と化した群衆は更に、役所系の町人や坊長の家も打ち壊そうと叫び、

道々 酒屋を見ては酒を出させこれを呑み、大黒町の豪商 松井家に押し寄せて乱暴し、

ついで本町天王屋平三郎や、浅井政男 宅など次々と襲っていった。

また、南小路油屋弥六宅では、醤油だるの輪を切って醤油を流し、京町八木宅でも

酒蔵に入り、同じ様に酒だるの輪を切り、また引き返して大黒町の室屋へ押し入っては、

ここでも醤油だるの輪を全て切って醤油を流しあたり一面泥海としてしまった。

次に、松村友松、本町宮下和三郎 宅へと押し寄せた。特に、松村家では群衆の

熱狂は頂点に達しており、家財道具を全て庭に放り出しこれに火を付け、

更にその火を家屋や醤油蔵にも燃え移して焼いてしまった。

この騒ぎに乗じて、酒や飯の無銭飲食をする者や、金を盗む者まで現れ、

騒ぎは翌日 8月8日未明まで続き、朝になってようやく収まった。

こうして、騒動の当日の記録を見ていくと、それまでの旧君主の家格昇格運動とは

また別の所で偶発的に起こった暴動で(きっかけは、運動者六人の護送ではあるが...)、

むしろ先に記した前年の凶作に端を発した一揆的性格のものの様にも見られる。

しかし、この日朝から行われた福井の処置は府中本多家家格昇格運動で起こった

騒動ととらえ、暴動の首謀者は、旧本多家の家臣団にあると見ていた。




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