越前府中 松本家

越前府中藩家老松本家の初代正勝は、もともと戦国時代 奥羽地方で勢威をふるった

芦名家の四家老の一人であったが、天正17年 芦名家が伊達政宗に滅ぼされ、

流浪の身となり 下野国宇都宮に隠居した。しかし、翌 天正18年に結城秀康に

随行して来た のちの越前府中藩主 本多富正に召し抱えらた。時に正勝三十一才、

富正十九才であった。その後、秀吉の朝鮮の役には名護屋に在陣し、関ヶ原の戦いでは

会津の上杉の押さえとして宇都宮に出陣している。関ヶ原合戦後の

結城秀康の越前北の庄入城と本多富正の越前府中拝領により、

松本家も越前府中に土着し、江戸期を通し府中藩の家老職を勤める事となる。


<松本家十代 松本秀彦氏 著書「松本家の系譜」より>

松本家歴代
通称
続柄
生年
没年
初代 正勝勝延・忠蔵・源兵衛
永禄3年(1560)寛永10年(1633)
二代 勝定左源太・源兵衛初代三男久松志毛慶長7年(1602)慶安元年(1648)
三代 勝俊源太郎・四郎右衛門二代長男本多千加寛永11年(1634)寛文10年(1670)
四代 勝當源之助・源五衛右衛門・源休三代長男本多比為寛文7年(1667)寛保2年(1742)
五代 廣軌乙之丞・所左衛門・源兵衛福井藩士
溝口重柱二男
国枝 蘭享保10年(1725)寛政7年(1795)
六代 勝有勝制・右馬之丞・如船五代長男平野 近宝暦9年(1759)文政5年(1822)
七代 勝彦源十郎・源兵衛六代二男若代美奈寛政10年(1798)嘉永3年(1850)
八代 勝基源太郎・酒人・晩翠七代長男杉田 節天保3年(1832)明治21年(1888)
九代 勝敦源太郎八代長男平野 門安政6年(1859)大正14年(1925)
十代 秀彦
九代二男岩原 愛明治34年(1901)平成4年(1992)





家格運動で参謀長を務めた松本家の八代 松本晩翠(勝基・酒人)は、

幕末期の動乱を受け、福井本藩の数回の軍事的出兵に参加している。

元治元年(1864年)7月19日、丁度 晩翠が福井本藩の名代として上洛途中

京都で禁門の変が勃発。7月21日には十数名の府中兵を率いて京都に入り

長州兵残党の検索と福井本藩が守る堺町御門を守備した。

また同年(1864年)11月、天狗党の乱で水戸藩士 武田耕雲斉ら一党が

府中領近辺に接近した時、その討伐の為再び出陣している。しかし、

府中藩は、一党が迂回したので積極的な追走はせず衝突はなかった。

<<<<明治20年5月撮影>>>>
更に慶応元年(1865年)12月には第二次長州征伐に、時の府中藩主 本多副元(すけもと) が率いる

福井本藩からの出陣に参加し大坂に駐留した。しかしこれは、戦場から遥か後方

将軍 家茂がいる大坂本陣の守備固めが役目であった為、結構のんびりした

ものだった様である。その後、家茂の死去で翌 慶応二年(1866年)10月に帰府している。

明けて慶応三年(1867年)は、府中に限って言えば町は静かであった。

そして明治元年(1868年)戊辰の年、福井藩にも奥羽列藩同盟の庄内、会津藩などに対し

政府より出動命令が出、7月2日に晩翠ら府中兵も越後口へ向かった。

初め 官軍の長岡兵との交戦では福井(府中)兵は予備的な増援隊であったが、

その後 8月から9月には晩翠の所属した隊は荘内口に転戦、会津 荘内の降伏により

9月末に会津に入城し、追って引き揚げ命令で12月に凱旋している。

この会津征伐の場面で、”越前人物志”等 郷土史の人物紹介には

次のような逸話が書かれている。

「是役部下を率ひ、薩長の軍と共に、一砦を攻撃す。会津の軍乃ち降旗を揚て

帰順の意を表す。時に薩長の軍必ず之を良しとせず、既に大砲を装す。晩翠

身を挺んでて砲門を塞ぎ、揚言して曰く、君軍必ず降兵を欲せば、先我命を

絶てよと。薩長の軍之が為に止み、一砦の士卒遂に免るる事を得たり。」

(敵はついに白旗をかかげ降参した。しかし薩長藩兵は、白旗を無視し大砲を

放ち、会津兵を皆殺しにしようとした。晩翠はこの時、砲の前に立ちはだかって

「降伏を申し込んでいる敵兵を撃つのは卑劣である。どうしてもこの砲を

撃ちたいのなら、先にこの俺を撃て。」と叫び会津兵を助けた...。)

この逸話の信憑性は別にしても、このような伝説がのちの郷土史等に書き残される

ような人物であった事は想像出来る...。


Special Thanks to Hidehiko Matsumoto



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