追 記 改 編 平 成 二 十 七 年乙 未 五 月 初 夏 |
初 版 平 成 二 十 五 年癸 巳 九 月 初 秋 |
此 処 に ` 記 録 と し て 留 め 置 く 次 第 で す |
そ し て 今 は 存 在 し な い 幾 つ か の 墓 石 も 含 め |
現 存 す る 旧 藩 士 の 墓 や 旧 藩 士 ゆ か り の 碑 ` |
そ こ で ` こ こ 数 年 で 私 個 人 が 確 認 出 来 た |
幕 を 降 ろ す や も 知 れ ま せ ん |
明 日 に は ` そ の 二 〇 〇 年 以 上 の 歴 史 に |
今 日 ` 現 存 し ` 今 ` 見 る 事 の 出 来 る お 墓 も |
お 墓 の 無 縁 仏 化 や 墓 石 の 風 化 ` 墓 地 の 整 理 等 |
し か し ` 明 治 維 新 か ら 一 四 〇 年 以 上 が 経 ち |
近 代 ま で ` 残 っ た と 考 え ら れ ま す |
護 ら れ て 来 て ` 比 較 的 多 く の 古 い 墓 が |
江 戸 期 を 徹 し て 各 家 そ れ ぞ れ の 菩 提 寺 で |
旧 藩 士 達 の 墓 も ` 当 然 の 事 な が ら |
故 に 入 府 以 来 ` 或 い は 途 中 召 し 抱 え の |
大 き な 震 災 や 戦 災 に は 遭 っ て い ま せ ん |
城 下 は 幾 度 か の 大 火 に は み ま わ れ た も の の |
領 主 の 国 替 え も 無 く ` |
そ の 後 ` 江 戸 期 の 二 六 〇 年 余 り を 徹 し |
関 ヶ 原 の 戦 後 ` 本 多 氏 に 治 め ら れ ` |
越 前 府 中 は ` |
『 |
札 の 辻 覚 え 書 ・ 定 め 書 風 |
』 |
僭越ナガラ・・・、”Respect to Jukichi Ishibashi” | _ |
円 宮 寺 |
宝 円 寺 |
養 徳 寺 |
妙 高 寺 |
大 宝 寺 |
龍 門 寺 |
蓮 尚 寺 |
正 願 寺 |
陽 願 寺 |
久 成 寺 |
大 心 寺 |
経 王 寺 |
正 覚 寺 |
妙 國 寺 |
龍 泉 寺 |
引 接 寺 |
金 剛 院 |
本 興 寺 |
鯖江 ← 縁故 → 府中 |
それぞれの家の幾多の縁者が、先祖への思いを心に足を運び、 その瞳にこれを映し.手を合わせたであろうお墓の数々です。 今その古いお墓の前に佇み昔の武生の人々と同じように、これらの墓石を瞳に映す時、 当時の人々の祈りは、一瞬の夢のようで幻であったかのようにも思えます。 しかし、これら雪国の積年の風雪に耐えて残る墓石の数々が存在する限り、 今では”古の幻”とも言えるここに眠る藩士や墓に参った人々の営みが、 江戸時代の武生に確かにあった事の証を見せてくれていると感じます。 『武生騒動』の後、一方的で非情なたった一片の通達により 福井への移住をよぎなくされた藩士達の府中の屋敷は、早々に取り壊されてしまい 残念ながら今では、嘗ての武家の趣が漂う城下の面影は、ほとんど残っていませんが、 この”新支配のパワハラ命令”も、流石に府中藩士先祖代々の 墓所の移転にまでは及ばなかった事は、”災い中の幸い”と言えます。 勿論ここではまだ、旧藩士の現存墓碑の全てを網羅出来きてはいないと思いますが、 各お寺様には、私の個人的なこの探索による非礼のお詫びと感謝を申し上げます。 更に、各家の御子孫の皆様には当ページの趣旨を御理解頂きたく、お願い申し上げます。 また他家のお墓の情報など御座いましたら、ご教授頂ければ幸いです。 |
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