越府本多家旧家臣墓碑めぐり

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鯖江藩士  戸祭家 (戸祭文造の養父母の墓?)  浄土宗 鯖江長泉寺 西福寺


戸祭文造は、
安政6年(1859)に府中藩士の高橋利左衛門の次男に生れる。その後、鯖江藩士の戸祭家を継ぐ。
福井醫所等で醫を学び、更に東京帝國大学醫学部を卒業して海軍醫官となる。
日清・日露および第一次大戦にも参加、海軍醫官の要職に就く。
府中の旧友、松本源太郎は文造を賞して
”・・頗るいたづらな餓鬼大将なりしを知れり。・・実に意外なりき。”とある。

昭和10年1月30日歿。享年七十七。東京青山霊園墓地に眠る。



府中藩家老 八代  本多九郎左衛門之妻 墓    府中 曹洞宗  金剛院


府中藩家老本多家の八代、本多九郎左衛門(作助)の妻カエ(加江)は、 鯖江藩士の小林三左衛門の三女。
男は九代、本多駒三郎(鼎介)。



鯖江藩士  小池十助正均之妻 墓    鯖江 曹洞宗  萬慶寺 (旧墓所 王山東麓)


墓誌曰 『 小池十助正均妻之墓越府中本多家臣高木七左衛門雄忠之娘
文政二年己卯六月廿四日病而歿年四十一


高木七左衛門雄忠 之墓  
武生 曹洞宗  金剛院






鯖江藩醫臣  加藤安石 之墓    鯖江 曹洞宗  萬慶寺 (旧墓所 王山東麓)


加藤安石は府中の小木氏の人。
鯖江藩醫の加藤雲昌の養嫡子と為る。養父の藩醫加藤雲昌は相州の人。
文化八年十二月廿七日歿。享年六十八。

墓誌曰 『
先生諱安字安石姓藤原氏稱加藤越前鯖江醫臣考曰雲昌君妣内芝氏先生本州
府中人小木氏之子雲昌君養為嗣以女配之先生歴事三世 栖蓮公最寵之恩遇殊渥數従
往東都為人誠實好義不枸細行善興人和當救人之急見貧○之親戚故舊為先生所助佑者
多矣若其施術治病推而可知也近者舊宅殆朽壊於c擇材改築可○能遂搆堂之志矣以
文化八年辛未冬十二月二十七日病而終自生延享紀元甲子至是為年六十有八葬城南
萬慶寺後先塋側有三男一女伯貢号杏庵既召為侍醫仲安親出絆○○季静寛継奥村氏
女適武氏銘曰奕克寿五福○備遺愛感思維徳所致方術○○養生起○○光○祖多祉孫子
                               鯖江後學 芥川希由謹撰
                               ○○○○ 加藤貢 建焉


鯖江藩醫の加藤家三代の墓誌を藩儒の芥川家三代が撰している事から、
加藤家と芥川家は永らく親しい間柄であったと思われます。
縁あって他所より鯖江藩に来た両家には、お互い通ずるものがあったのでしょうか。




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