越前府中 竹内家

越前府中 竹内家は、代々府中藩の奉行職を務めた家であるが、

府中本多家家臣録で最初に記録が確認出来るのは、享保14年(1729年)の

竹内家六代 竹内浅右衛門(久永)からである。

また、郷土史人物編等にも府中本多家の家臣になった経緯などの記載がなく

竹内家の府中への土着までの経歴は不明であるが、府中藩には比較的珍しく

古くから"文武"の"文"(学者)の方の家であったようである。

ちなみに、府中藩の家臣団は大きく三つに分ける事ができる。

1は結城譜代、三河(本多)譜代。これは言うまでもなく福井本藩々主 結城秀康や

府中藩主 本多富正の古くからの家来で、藩主に従い府中にやって来た家臣団である。

2に下野浪人、泉州浪人、他所浪人。これは関ヶ原前から大坂の両陣まで秀康(福井藩)が

転戦してきた地で召し抱えられ、府中に来た家臣団である。

府中藩家老松本家はここに属する。

3に新参地侍。こちらは、秀康、富正が越前(府中)に入領後、地元で召し抱えた家臣団である。

勿論戦国の世であった為、いずれもどちらかと言えば"文武"の"武"の方が主流で

"文"の竹内家は少なくとも上記2ではないように思われるが、竹内家初代は

案外"武"の人だったかも知れない。いずれにせよ、府中藩家臣の人物史では

学者として、竹内家七代 竹内無因斉から詳しく登場する。

竹内家歴代
通称
続柄
生年
没年
初代
法名:道久
寛永12年(1635)
二代
法名:道正
寛文7年(1667)
三代
法名:道寿
元禄9年(1696)
四代
法名:善了
明暦元年(1655)?
元禄1年(1688)
五代 竹内久永
浅右衛門(法名:全入)
貞享3年(1686)
宝歴11年(1761)
六代 竹内久品
林平・可笑
享保11年(1726)
文化13年(1816)
七代 竹内無因斎
孫七・四郎左衛門・長孝
六代三男
宝歴8年(1758) 文政11年(1828)
八代 竹内霞堂
文一郎・團・包教
七代長男
寛政4年(1792) 文政11年(1828)
九代 竹内隆元
文太郎・広助
八代長男
文政4年(1821)
安政3年(1856)
十代 竹内確斎
佐次郎・広助・四郎左衛門
八代次男
文政6年(1823) 安政6年(1859)
十一代 竹内隆季
理三郎・浅之丞
八代三男
文政8年(1825)
万延1年(1860)
十二代 竹内團
哲吉・孝三郎・勝郷
松本家七代
三男
天保12年(1841) 明治3年(1870)
十三代 竹内又六
若代家二男文久3年(1863)明治45年(1912)
十四代 竹内亮
十三代長男明治27年(1894)昭和57年(1982)
十五代 竹内一郎
十四代長男昭和4年(1929)平成28年(2016)

<明治・大正期まで、竹内=”たけのうち”と呼ばれていた>


五代 竹内久永

  伝書によると、

  久永の父:四代 善了が早くに亡くなり、

  善了の弟(久永の叔父)の(久左衛門)道周が継いだが、家は、道周の散財により没落する。

  久永は、江戸に出て学び、

  帰府後、本多家に仕え、賜禄宅地により家の再興を計った、 と伝えられる。


七代 竹内無因斎

  祖父 久永、父 久品いずれも奉行職をつとめた。

  幼少の時から聡明で、よく学問をたしなんだ。福井藩儒について学びその後本多氏も

  無因斎の才を知り、その庫書を自由に閲覧させ 文化六年には奉行職に昇進した。

  性格は温恭で、しかも禅に通じいつでも己を虚しうして人を容れる雅量があった。

  公事の余暇には詩を吟じる事を楽しみにしていた。後年京都に出たが、身に寸鉄を

  おびず、いつも道服を着て木如意を腰にしていたので、あたかも仙人のようであった

  という。文政11年(1828)八月十七日没す。享年七十一。


八代 竹内霞堂

  府中藩儒 八代 竹内無因斎の長男。

  五歳の時すでに歴代天皇の名を暗記していたという。八歳で書を学び、十三歳の時には

  詩を作った。文政元年(1818)京都に遊学し、翌年帰郷して文政11年(1828)2月、執法に昇格した。

  性格は温和で容姿も美しく、言動には少しもかどかどしい所がなく彼をしたって学ぶ者が多かった

  という。文政11年(1828)七月二十五日、赤痢で没した。享年三十七。


十代 竹内確斎

  府中藩儒 十代 竹内霞堂の次男。

  兄・隆元の病気隠居の為、二十歳で竹内家を継ぐ。

  初め父霞堂について学こと数年。その後江戸に行き安積良斎の門に入って修学し帰藩して

  嘉永六年三月、伯父の沖(松永)薊斎(竹内無因斎の二男)とともに府中藩校 立教館の創建に務め、

  同年、同館の助教となった。安政六年八月六日、コレラにて没した。享年三十七。


十代 竹内確斎の死後、弟の竹内隆季が竹内家を継いだが、翌 万延元年(1860)に隆季も没し、

竹内家は断絶してしまう。しかし、藩主の断絶を惜しむ声と家老 松本家の二男坊対策?

として形式上、竹内家の家督が継がれる事となる。松本家の二男 哲吉が十九歳の時である。


十二代 竹内團



竹内家十二代を継いだ竹内團(たけのうち まどか)は、

天保12年(1841)一月九日、

府中藩家老で松本家七代 松本勝彦の三男として生まれる。

兄は、のちの府中藩家老で松本家八代 松本晩翠である。

幼名を孝三郎、哲吉と言いその後 勝郷と称した。

竹内家を継いで團と号した。

体は小さいが筋骨たくましく、剣を取っては家中屈指の人であった。




写真には、

「慶應二年 丙寅歳 四月二十一日 浪花城滞陣中 寫之 干時年二十六 竹内勝郷」とあり、

長州征伐軍として大坂出陣の折りに撮影したものである。

(摂陽心斎橋北街 写真師 中川信輔:撮影)

團は、この大坂出陣から引き揚げ後、

團の子の中で唯一成人した末の子(女子)をもうけている。

明治2年の府中本多家々格運動では、

兄 松本晩翠が務める参謀長の補佐役となり、

兄の北海道視察をも視野に入れた東京への出発時に、

兄の留守中 府中での暴発も予想され、

またその有事には晩翠の実弟である團自身にも難が予想される中、

「後は俺にまかせろ!」と言い、兄 晩翠を送り出したと伝えられる。


=======================================

明治3年8月、府中騒動が起き、その主謀者として竹内團は捕らえられ、

福井の獄舎で同年10月に獄死(享年三十)。竹内家はその妻と幼い娘(一歳七ヶ月)のみが残され

再び断絶の危機にさらされる。しかし、その後 松本家や親戚の力添えもあり明治25年には

その團の一人娘(捨:すて)に、晩翠の妹の次男(若代又六)を婿に迎え(従兄妹)、五男一女がもうけられ、

越前府中で200年以上続いた”竹内”の名は再び断絶の危機を乗り越え、

その子孫が現在でも”たけうち”の名字を名乗り続ける事となった。


Special Thanks to Ichiro Takeuchi



戻る / HOME