南越鯖江藩儒芥川氏  (四代)



 南越鯖江藩儒芥川氏四代  (1788〜1920頃)

天明8年(1788)の秋、藩主となって3年目の若き5代鯖江藩主間部詮熙は、京都で著名な学者として
注目されていた芥川元澄(左民、子泉、思堂)を儒臣として招聘、元澄はこれに応え京より南越鯖江に移住。
藩校進徳館(しんとくかん)や江戸の藩校惜陰堂(せきいんどう)の教官に就任し多くの人材を育てる。
芥川家はこの鯖江藩儒初代の元澄以降、玉潭(ぎょくたん)、帰山(きざん)強(つよし)と三代にわたり
鯖江藩校などの教官を務め、また、幾多の著書や多数の墓碑誌銘を撰し南越の地に残した。



 南越鯖江藩儒"芥川"氏の系譜 

『芥川氏系譜』(芥川強謄写:東京大学史料編纂所蔵)によると「南越鯖江藩儒芥川氏」のルーツは、
信濃源氏(源義光)から繋がる阿波小笠原氏で、更にそこから繋がる阿波三好氏の戦国武将三好長慶の
父である三好長秀(長基)の末弟『長則』が"攝津芥川"姓を名乗り、当"芥川家"の始祖となった。
この"芥川一世"長則の嫡子『長遠=芥川孫十郎』が攝津芥川山城に入城するも
後に三好長慶と対立、長慶に攻め落とされ芥川山城を明け渡し阿波三好氏の下(十河氏)に逃れる。
しかし、その十河氏も後に長宗我部氏に滅ぼされ、当芥川氏の子孫"長明"(実は三好長慶の庶子)は、
阿波から大坂堺→江戸深川へと移り、四世長明の次の代:五世長範の時に京都へと移り住んだ。
後に南越鯖江藩儒となる芥川思堂(元澄、左民)とその父、芥川丹邱(煥、彦章、養軒)は、
この京師の地において儒者として高名を博すこととなる。



芥川丹邱

芥川丹邱は、祖父:芥川五世長範(紀伊国屋文左衛門三悦)の四男であった、六世清範の長子。
宝永七年三月四日(1710)京都に生まれる。母は那良氏の人。
初め母方の叔父で医家の那良宗哲に句読を受ける。その後伊藤仁斎の門弟の大町教素ならび伊藤東涯、
更に宇野明霞、服部南郭に学び、宇野士郎、柴野栗山、清田絢らと交友。特に在京福井藩儒の清田絢とは親友。
その学問は博覧強記、詩人としても有名で易学や仏教にも精通し著作多数。
寛延、明和の二度の朝鮮通信使の来訪時には大坂鴻臚館(津村御坊=北御堂)にて唱和する。
上方における徂徠学の提唱の先駆けでもあったが、後に陽明学に転じた。
妻、今西氏の女。天明五年(1785)六月廿九日歿。享年七十六。


 <芥川丹邱 撰文碑> 


  大坂高津宮 『高台之頌碑(たかきやのしょうひ)』



高薹之頌碑
高薹于升而見則煙起民之竈者贍爾兮里
猗與鷦鷯 聡明岐嶷 昆弟克譲 互辞天禄 稚皇就節 斯始登極
有若王仁 徴自百済 開學授経 宏亮帝制 高薹登望 烟少民饑
帝心不安 倹身維[夕寅] 除租息調 恤孤養老 宮垣不亜 梁楹不藻
三歳豊鐃 炊烟起堆 望知民蘇 造謌高薹 元聖輔君 賦難波梅
籠冬逢春 詠斯花開 帝徳廣運 庶事熙哉 造宮営室 兆民子米
穿開堀江 通海曳川 茨田築堤 萬億懇田 推端午曰 始献菖蒲
永為恒式 以顕徳符 白鹿示慶 連理呈祥 四海沾化 洪澤無量
褒聖賛功 金石欽勒 仰頌至聖 永世不革
明和九年季壬辰秋八月朔旦
                     平安  芥煥彦章甫 謹撰
                     浪華  牟純平介甫 謹書









南越鯖江藩儒初代   芥川 思堂 (左民、子泉、元澄)
南越鯖江藩儒二代   芥川 玉潭 (才二郎、子轍、希由)
南越鯖江藩儒三代   芥川 歸山 (捨蔵、済、子軫、舟之)
南越鯖江藩儒四代   芥川 強 (護、子輻、南軒)






参考文献・ウェブ・データ

若越墓碑めぐり
芥川氏系譜(デジタル・データ)
先哲像傳(デジタル・データ)
蒹葭堂日記
京阪文藝史料 第一巻
高山彦九郎記念館・高山彦九郎交遊録
『平安人物志』人名録
近世藩校に於ける学統学派の研究(上)



m(_ _)m



HOME