南越鯖江藩儒初代 芥川思堂 (左民、子泉、元澄)
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京師の儒学者 芥川丹邱の二男。
延享甲子元年(1744)10月21日、京都に生まれる。 明和甲申元年(1764年6月2日〜)朝鮮来聘(朝鮮通信使)時に 若干二十歳の左民も父の丹邱と共に大坂の鴻臚館で通信使と唱和す。 その才を広く知られる事となり、大坂で門戸を開き門人を教授する。 大坂においては「混沌詩社」の社友の面々とも親交、 木村蒹葭堂宅に出入りし国産初の顕微鏡の制作をした、 服部永[金易](油屋吉右衛門=大坂百間堀在住)などと親交あり。 天明八年(1788)正月の京都"天明の大火"の後、 父丹邱と親交のあった鯖江藩儒の田中信蔵(適所)の推挙と、 南越鯖江五代藩主 間部詮熙(家督相続直後)の招聘に応え鯖江藩儒となる。時に、元澄四十五歳。 翌年京都より一家で鯖江に移住、直ちに『越前鯖江志』『間部家譜』等を編纂。 妻、石川氏の女。文化四年(1807)正月六日歿。享年六十四。(鯖江藩儒在任19年) |
< 芥川思堂 京師浪華年表 >
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延享元年(1744)10月21日 | 京都に生まれる。 | (左民: 1歳) |
明和甲申元年(1764) | 朝鮮来聘に父、丹邱と共に大坂の鴻臚館にて唱和す。 | (左民:21歳) |
明和年間(1760年代中頃) |
左民、若干21歳にして父丹邱と通信史との唱和が評判となり、 大坂において両三年門人を教授する。(後に帰京) |
(左民:20代) |
安永4年(1775) | 京都にて左民の長男、鉄太郎(子軾、希瞻)生まれる。 | (左民:32歳) |
安永4年(1775) | 「平安人物志」"二条通高倉西ヘ入町 (1) "(ニ住ス) | (左民:32歳) |
安永6年(1777)10月6日 | 京都にて左民の二男、才二郎(子轍、希由、玉潭)生まれる。 | (左民:34歳) |
(推考) 安永7年(1778)頃 |
左民、再び大坂(百間町近辺)に住居し(?) 木村兼葭堂をはじめ混沌詩社々友らと交友する。 |
(左民:30代〜42歳) |
安永8年(1779)4月27日 | 「兼葭堂日記」 " 服部吉右衛門(2) 芥川左 来話" | (左民:36歳) |
安永8年(1779)6月16日 | 「兼葭堂日記」 "昼後服部吉右衛門ヘ行 芥川出会夜ニ入て帰ル" | (左民:36歳) |
安永8年(1779)6月24日 | 「兼葭堂日記」 "四ッ時芥川左民鳥羽万七郎過訪中食出ス" | (左民:36歳) |
安永9年(1780)1月8日 | 「兼葭堂日記」 "服部風笋 芥川左民 二川藤兵衛 此夜堀江遊アリ" | (左民:37歳) |
安永9年(1780)7月2日 | 「兼葭堂日記」 "夕方加藤武内芥川左民亀宇" | (左民:37歳) |
安永9年(1780)9月23日 | 「兼葭堂日記」 "芥川左民 小笠原・・・石川元兵衛・・・過訪" | (左民:37歳) |
安永9年(1780)11月20日 | 「兼葭堂日記」 "昼服部風笋 芥川左民 関典齢" | (左民:37歳) |
安永9年(1780)12月9日 | 「兼葭堂日記」 "中食 岡氏内室 久徳台八 芥川左民・・・" | (左民:37歳) |
天明2年(1782)2月24日 | 「兼葭堂日記」 "服部氏中芝居・・・芥川左民・・・夕飯" | (左民:39歳) |
天明元年(1781)夏 | 「顕微鏡記」 "・・・予(中井履軒)訪(服部)永錫氏・・・" | (左民:39歳) |
天明2年(1782)6月28日 | 「兼葭堂日記」 "早朝鯨橋ヤ新兵衛・・・芥川左民・・・油吉 帰宅" | (左民:39歳) |
天明2年(1782)10月7日 |
「兼葭堂日記」 "・・・油屋ヘ行キ中昼後油屋同伴 芥川左民・・・ 清寿院 (3) ヘ行帰り岩善" |
(左民:39歳) |
天明2年(1782)10月14日 | 「兼葭堂日記」 "油吉 家内 芥川左民帰ル" | (左民:39歳) |
天明2年(1782)11月9日 | 「兼葭堂日記」 "芥川左民 油吉 夜迄" | (左民:39歳) |
天明2年(1782)11月26日 | 「高山彦九郎日記」"左民殿、浪華に居るといふ、 末子万蔵(4) に相識となる" | (左民:39歳) |
天明2年(1782)12月20日 | 「兼葭堂日記」 "方空ヘ小比賀行・・・芥川左民 油吉 細合半斎(5) ・・・夜帰ル" | (左民:39歳) |
天明3年(1783)1月20日 | 「兼葭堂日記」 "曇雨 夜油吉節会行・・・芥川左民・・・同伴" | (左民:40歳) |
天明3年(1783)2月14日 | 「兼葭堂日記」 "油吉芥川同伴 西照庵(6) 片山寿会行晩帰" | (左民:40歳) |
天明3年(1783)6月23日 | 「兼葭堂日記」 "林圭・・・油吉芥川左民・・・ " | (左民:40歳) |
天明3年(1783)7月30日 | 「兼葭堂日記」 "・・・林圭 芥川左民 松浦雄吾 上田東作" | (左民:40歳) |
天明3年(1783)9月20日 | 「兼葭堂日記」 "・・・夜 油吉芥川左民 話" | (左民:40歳) |
天明3年(1783)12月25日 | 「兼葭堂日記」 "・・・芥川左民 青木門弥 曽谷仲介・・・夕飯出ス" | (左民:40歳) |
天明4年(1784)1月2日 | 「兼葭堂日記」 "・・・油吉芥川左民・・・年礼八ッ時帰宅" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)閏1月26日 | 「兼葭堂日記」 "・・・毛五油吉知る人也 芥川左民 夜今市初夜夜雨" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)4月3日 | 「兼葭堂日記」 "・・・雑賀七兵衛書状(中食)同伴芥川左民ヘ行油吉ヘ行帰ル" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)6月12日 | 「兼葭堂日記」 "芥川左民過夜岡慈庵行" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)7月9日 | 「兼葭堂日記」 "夜光禅寺 (7) 芥川左民油吉来ル" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)10月4日 | 「兼葭堂日記」 "・・・昼後・・・松浦雄吾 尼五 芥川左民" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)11月2日 | 「兼葭堂日記」 "芥川左民来不遇" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)11月22日 | 「兼葭堂日記」 "早天出て徳見茂四郎宿ヘ行帰リ奥田松斎 芥川左民" | (左民:41歳) |
天明4年(1784)11月27日 |
「兼葭堂日記」 "東役所行帰惣会行帰リ 芥川左民 片山中蔵 (8) 服部吉右衛門・・暮帰" |
(左民:41歳) |
天明4年(1784)12月19日 | 「兼葭堂日記」 "渡辺信濃 油吉 芥川左民 酒出ス" | (左民:41歳) |
天明5年(1785)4月27日 | 「兼葭堂日記」 "雨・・・食の手代 松浦雄吾両人同伴岡慈庵 芥川左民" | (左民:42歳) |
天明5年(1785)6月29日 | 父、芥川彦章(丹邱)歿する。 享年76。 | (左民:42歳) |
(推考)天明5年(1785)夏 | 左民、父、芥川丹邱の歿するにあたり大坂より帰京する。(?) | (左民:42歳) |
天明8年(1788)1月30日未明 | 〜2月2 日、『(京都)天明大火 』起こる。 左民、被災する。 | (左民:45歳) |
天明8年(1788)3月5日 | 「兼葭堂日記」 "・・・林圭 若狭屋政五郎 芥川左民" | (左民:45歳) |
天明8年(1788)3月13日 | 「兼葭堂日記」 "・・・芥川左民来訪 磯部啓左衛門来" | (左民:45歳) |
天明8年(1788)4月4日 | 「兼葭堂日記」 "林圭 阿波善 芥川左民・・・" | (左民:45歳) |
天明8年(1788)4月19日 | 「兼葭堂日記」 "・・・芥川左民 今市清斎" | (左民:45歳) |
天明8年(1788)4月20日 | 「兼葭堂日記」 "雨 林圭 芥川左民 松浦・・・昼晴" | (左民:45歳) |
天明8年(1788) 秋 | 越前鯖江間部氏の招聘に応じ、鯖江藩文学として単身赴任する。 | (左民:45歳) |
天明9年(1789) | 左民の妻と子(息二人:鉄太郎15, 才二郎13)も鯖江に移住する。 | (左民:46歳) |
< 芥川思堂 墓碑撰文集 >
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(1)二条通高倉西ヘ入町
「平安人物志」安永四年(1775)版によると芥川左民は当時、 京都二条城から東に伸びる二条通と南北に伸びる高倉通の交差点から西側入るに住居していた。 |
(2)服部吉右衛門
通称、油屋吉右衛門。または、油吉。服部永錫。木村兼葭堂と親交深い。 その兼葭堂が住む大坂北堀江から2ブロック北の百間町(丁)に住み、 薩摩藩大坂屋敷の蔵元を勤める商人であった。生歿年不明。 芥川左民とも交友厚く、左民の住居も油屋吉右衛門の百間町方面であったと推測される。 「浪華郷友録」の寛政2年(1790)9月版で「聞入」「物産家」の”服式雅”として登載。 また油吉は日本初の顕微鏡摸造にも成功していて、中井履軒の訪問をうけ(1781夏)、 履軒はその観察記「顕微鏡記」を記している。 |
(3)清寿院
大坂四天王寺の東ある元浄土宗の寺。明和元年(1764)黄檗宗の末寺となる。 木村兼葭堂と清寿院との交流は盛んで、中国文化を取り入れた文化サロンとなっていた。 この日(天明2年(1782)10月7日)、 芥川左民は、兼葭堂、油屋吉右衛門と連れ立って”清寿院”を訪れている。 |
(4)末子万蔵
芥川丹邱の四男で、芥川左民の末の弟。普。 後藤艮山(養庵)の孫の後藤慕庵(香四郎:1736-1788)の、養嫡子となる。 後藤栗庵(左一郎)。徽。 墓所: 京都 蓮台寺普門院。 |
(5) 細合半斎
八郎左衛門。離。方明。麗王。斗南。学半斎。太乙真人。(1727〜1803) 京都より大坂に出、菅甘谷に儒を学び書を趙陶斎に学ぶ。 詩文を能くし片山北海の混沌詩社に加盟、木村兼葭堂の婚姻に媒酌人を務める。 この日(天明2年(1782)12月20日)、油屋吉右衛門(油吉)と同伴で兼葭堂宅を訪れた 芥川左民は、同じく兼葭堂を訪れていた細合半斎と同席する。 |
(6)西照庵
大坂の上町大地の西斜面、夕陽丘にあった料理屋。 その座敷からは大坂市中はもとより大坂湾の海までも見渡せる絶景で、 店名の通り、西に沈む夕日が格別の美しさであった。 片山北海の誕生日(62歳)であるこの日(天明3年(1783)2月14日)、 芥川左民は兼葭堂と油吉と連れ立って、”片山寿会”が行われた西照庵を訪れる。 |
(7)光禅寺
北堀江の木村兼葭堂宅から北東の位置にある真宗大谷派のお寺。 この日(天明4年(1784)7月9日)の夜、芥川左民も油屋吉右衛門と同伴にて”光禅寺”を訪れている。 |
(8)片山中蔵
片山北海(1723〜1790)。猷、徽猷、孝秩。越後の人。 左民の父、丹邱と同じく宇野明霞の門人。 師の没後、知人の大坂商人の招きで大坂に移住し「孤松館」を開塾。 「兼葭堂会」を母体とする在坂の漢詩人を結集した 「混沌詩社」の盟主となる。 「混沌詩社」の結成は明和2年(1765)9月。その後安永末(1780)までに鳥山ッ岳ら何人かの 社友の中核が没し、天明末(1788)に田中鳴門が没し実質「混沌詩社」はこの時消滅する。 ”芥川左民”が、『兼葭堂日記(1安永8年(1779)正月〜)』における初出は、安永8年(1779)4月27日↑。 この日(天明4年(1784)11月27日)、芥川左民は油吉と同伴で木村兼葭堂宅を訪れ ”片山中蔵(北海)”と懇談し暮れに帰別す。 |
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南越鯖江藩儒二代 芥川 玉潭 (才二郎、子轍、希由) | |
南越鯖江藩儒三代 芥川 歸山 (捨蔵、済、子軫、舟之) | |
南越鯖江藩儒四代 芥川 強 (護、子輻、南軒) |