南越鯖江藩儒芥川玉潭 



南越鯖江藩儒二代  芥川玉潭 (才二郎、子轍、希由)

鯖江藩文学、芥川思堂の二男。安永六年(1777)十月六日、京都に生まれる。
芥川家の鯖江移住後、兄の芥川希瞻が寛政8年(1796)に早逝(享年二十三)した為、
父、思堂の死去に伴ない(1807)、玉潭三十一歳で藩儒を継ぐ。
文化十年、江戸の三田に設けられた御稽古所(後の「惜陰堂」の前身)と
文化十一年の鯖江中小路に創設された御稽古所(後の「進徳館」)の設立に、
その学規、学則の制定に尽力し子弟の教学にも尽くした。
藩主三代に侍講し藩政に進言する所もあり、藩主二代の墓誌銘を撰ず。
妻、鯖江藩士鈴木氏の女。天保三年(1832)二月二十三日歿。享年五十六。




 < 芥川玉潭 墓碑撰文集 > 


 『 芥川思堂先生之墓 』  鯖江王山東麓  (旧 萬慶寺墓所) 
(墓銘文 『若越墓碑めぐり』より)


文化四年丁卯春正月六日南越鯖江文學芥川思堂先生卒粤八日葬諸藩南王阜
背家塋既窓踰月立墓碑門人議其誌銘乃乞先生知友於三都間而偏地懸隔以故
擴日未果於是孝子希由哭曰嗚呼先考羈旅之臣也不可以弗識也日夜意之不已
遂謹記其碑陰曰先考平安人也諱元澄字子泉華稱左民思堂其號也其先三好氏
系出于源姓後領攝津芥川城因氏焉父號丹邱諱煥字彦章業儒在名于世母石川
氏考其次子因嫡夭焉嗣弟妹凡九人各在京及他國明和甲申朝鮮来聘考時弱冠
従父謁共學士記室於大坂鴻臚館相共唱和南秋月・元玄川等深賞其才也年比
強應門人請教授大坂兩三年天明戊申罹平安回禄故業焚盡僅脱身耳其夏辱聘
爲吾越鯖江間部候儒臣翌年移孥賜其費金若干食禄教授因命或考或撰毎月二
七進講経書居亡何適會寛政己酉冬幕府上列候族譜墓誌銘藩乃命考修撰諸江
戸之邸以進之永蔵諸藩後十年有令訂補其遺漏考復奉命其事輙賞其勤勞特賜
禮服白金等是吾家不朽大動足以爲榮焉自徒家數讀飛銭使便展先塋于京大雲
院且高祖墓在乎江戸深川本成寺至今儼然凡三適饗焉可謂其追孝也至矣世系
著述詳載行状中考學書法於源烏石明樂於魏君山皆究其○矣娶外戚石川氏生
二男従而来越長子希瞻皆不幸先亡請以次子爲嗣而不肖希由也賜學糧以勤業
娶臣鈴木敏雅季女爲之配及考卒命承襲云考以延享甲子十月廿一日而生方文
   化丙寅歳除患傷食至春疾暴危篤遂至不可救蓋寝疾十日而終焉得年六十有四(嗚呼哀哉痛
   哉系曰興家委質有徳無年吁弃是孤何不弔天遺憾丘首箕裘業傳安哉〔穴屯〕〔穴夕〕時祭享為)

                                    孝子 希由泣血謹誌


    ( 芥川思堂 文化4年(1807)正月6日没。享年63   玉潭 29歳 )





 『 奥村義頴 墓 』(鯖江藩家老)  鯖江王山東麓 (旧 萬慶寺墓所) 
(墓銘文 『若越墓碑めぐり』より)



  居士諱義頴字子洪奥村氏○○悦三郎称一學後改曰治右衛門以寳歴七年
  丁丑九月廿三日生千鯖江以文政七年甲申十二月十日病而歿年六十八葬
  于万慶寺先生娶木内氏生子男女十一人其先祖曰武重義仕小田原北条氏
  後○于○州伊勢ア終以居為○号洞聚院自為○開士其墓猶荘焉其玄孫曰
  義音嗣同州郷士奥村氏入譲其家於義弟別出為一家来仕吾 ○食禄千石
  其子曰義風特喝間部氏称其子義威有事黙○實居士之父也於是 命居士
  嗣其家新給五百石銘曰 家是源姓 本為武氏 重禄竭忠 奕世成美 
  登祚賀慶・・・・
                 (越前鯖江後學 芥希由謹誌)



     ( 奥村義頴 文化7年(1810)12月10日没。享年68   玉潭 33歳 )





 『 加藤安石 墓 』 (鯖江藩醫)  鯖江王山東麓  (旧 萬慶寺墓所)

先生諱安字安石姓藤原氏稱加藤越前鯖江醫臣考曰雲昌君妣内芝氏先生
本州府中人小木氏之子雲昌君養為嗣以女配之先生歴事三世 栖蓮公最
寵之恩遇殊渥數従往東都為人誠實好義不枸細行善興人和當救人之急見
貧○之親戚故舊為先生所助佑者多矣若其施術治病推而可知也近者舊宅
殆朽壊於c擇材改築可○能遂搆堂之志矣以文化八年辛未冬十二月二十
七日病而終自生延享紀元甲子至是為年六十有八葬城南萬慶寺後先塋側
有三男一女伯貢号杏庵既召為侍醫仲安親出絆○○季静寛継奥村氏女適
武氏銘曰奕克寿五福○備遺愛感思維徳所致方術○○養生起○○光○祖
多祉孫子           鯖江後學 芥川希由謹撰
               ○○○○ 加藤貢 建焉

  ( 加藤安石 文化八年(1811)12月27日歿。享年68  玉潭 34歳 )







 『 藩主 間部詮熙 墓 』 (鯖江藩主) 鯖江萬慶寺境内墓所

   
[””の中が”矢”の字] 諱詮熙少名内蔵叙従五位下号若狭守姓藤原本塩川氏後真鍋更改字間部故
   下総守詮茂公之嫡子母家女水谷氏侯之先北家大祖房前公之苗裔曰 清貞長子詮房両公共事於
   文廟朝有登等之寵勞亦之進列
[””の中が”矢”の字] 食五萬石封上野高崎後徒越後村上其嫡
   詮言公又移封新辟越前鯖江邑是 
[””の中が”矢”の字]之五世祖也 [””の中が”天明中嫡封
   為雁殿班餘如故事職役所歴西園右相伴大手隊防櫻田門衛等取牧野侯貞長之女 丗子詮允君既
   叙爵主膳正庶出男女八人 侯性温純不騎及画好修烽火術間年在藩也試之土神且講武也以明和七
   年庚寅六月廿日而生得年四十三病而逝馬實文化九年壬申正月十八日也自移鯖江以来九十餘而未
   有葬此地者
[””の中が”矢”の字]至此経營兆域奉柩襄事乃 [””の下に”木”の字]其丗系以刊石蔵
   壙中云銘曰      直而克敬 政尚平易 子惠臣民 節儉好施 重賞軽罰 封疆化被
   優厚家族 思恤天至 祖先光烈 永錫尓類 神之攸寧 高敬塋地

                       臣芥川希由哭泣敬誌

     ( 間部詮熙 文化九年(1812)正月十八日歿。享年四十二  玉潭 34歳 )




 『 藩主 間部詮允 墓 』 (鯖江藩主) 鯖江萬慶寺境内墓所

   公諱詮允字子功○姓族間部氏○稱直之助号肅齋 先侯真靈公庶長子母近藤氏寛政庚戌正月六日生
   于封邑越前鯖江十一歳従于東都立為丗子文化乙丑夏始延謁冬叙従五位任主膳正及 先侯即丗嗣封
   仍旧癸酉秋就邑踰年将朝覲臨發駕而病以七月十七日溘○逝年二十五葬于 先侯塋次○宰相望豈有
   不瞑手可謂此自有玄成歸葬之意也性柔仁和順常喜清静少好学長益篤崇信程朱讀其書不倦邸邑並立
   学舎以教導臣下以書画為樂雖有出猟唯養心山水耳旧制諸臣給禄毎承襲輒減損之是以寝至貧○ 先
   侯愍之且以為非社稷之固而業已議之 公継其志遂改之定丗食旧額是貽謀之最大者也宜B其壽以大
   施其徳也而命之有数無如之何二弟六妹一諱詮○先卒次為 嗣一適水野侯卒先 公二月次亦卒是年
   春也噫同氣連喪何其不天次適米倉侯餘未嫁季夭娶亀井侯女得一女生数月銘曰禄次七葉○聰維明○
   已求諌誨士安氓改遵前制社稷承平新造梵宇修起庠黌香火迫遠儒化日成学沿○洛淵源汲清孝及生母
   尊養推誠居重未幾遺徳垂榮父子天性封地列塋〔穴屯〕〔穴夕〕浅○哉其城

                           文化十一年甲戌秋八月 臣 芥川希由謹誌

      ( 間部詮允 文化十一年(1814)七月十七日歿。享年六十八  玉潭 36歳 )




 『 加藤安石 妻 墓 』 (鯖江藩醫家)  鯖江王山東麓  (旧 萬慶寺墓所)


太孺人諱松加藤雲昌君之女也母内芝氏以延享四年丁卯十月廿六日生
于越前鯖江配於義嗣安石君有三男一女性温惠静淑行甚端正悪奢華好
儉素自幼孝親長能事夫教育子孫有道治内事執婦功年老○且不惰暇則
好聞讀書安石君歿後落髪為尼信佛自養文化十三年丙子寝病○篤長子
杏?君時在東都給暇急歸視庸月餘醫薬無効以六月十日竟終焉年七十
母内芝氏祖母井尻氏亦皆齢過八十可譜世克壽先葬万慶寺後先塋側法
諡曰心萃院微音妙笑禅尼銘曰
婦徳母儀 老而益堅 居室無憂 終其天年

                越前鯖江後學  芥川希由謹誌
                    哀子  加藤貢 建之

 ( 加藤安石 妻 墓 文化十三年(1816)六月十日歿。享年七十  玉潭 38歳 )






 『 足立時雍 墓 』 (鯖江藩士)  鯖江 妙正寺



友石子○尭臣字時雍称米五郎永岡氏○事吾 藩父曰尭朝先祖父早○
季父尭○代嗣以子為後配其次女有一男二女文化十五年戊寅五月朔日
病而歿矣距生天明八年戊申八月三日年三十一芥希由之哭曰噫子及吾
門親如兄弟溘焉弃我共譜之何○也立碑石小不得具誌終銘○以寄情子
若有霊則知之銘曰       頴敏學而不厭 誨人諄○善誘 
言行一無圭○ 平素匿○蔵垢 ○退能執其節 外内皆稱孝友
抜擢遂入黌舎 生徒推為冠首 嗟呼大邪命平 何不使斯人壽
翁老矣兒幼矣 徳光克旨其後

                   南越鯖江 芥川希由誌之


( 足立時雍 墓 文化十五年(1818)五月一日歿。享年三十一、 玉潭 40歳 )






 『 足立道好 足立阿土 夫婦 墓 』 (鯖江藩士)  鯖江 妙正寺


大姉諱阿土田井弥大夫良顕之女為足立佃大夫道好之主二男三女為人貞
○○○為婦則克孝為母則克教家法厳○人○稚之○寳暦九年己卯四月廿
日○生以文政三年庚辰六月十五日病而葵蒼壽六十二後其夫廿四年合葬
焉居士諱道好稱○○足立氏世為 ○○○之臣父曰明母橋本氏莅士大
○○尭享之次男養○為子寛政九年丁巳三月廿九日病而終距生寛延三年
庚午九月十六日年同十八葬城南村妙正寺内先塋娶田井氏之女有子五人
男曰○○稱三郎助後改佐十郎父歿嗣家無葬○以弟強義為嗣稱保五郎後
三甫○○女曰勝適秋元氏次里江次路早死男道信○者造立此碑巳連鐫釋
号歴年生苔○半○減仝也強義磨石請予改書加録其生卒時文政三年庚辰
七月                   鯖藩文學 芥川希由志

( 足立道好 寛政九年(1797)三月廿九日歿、享年四十八。 玉潭 20歳
  足立阿土 文政三年(1820)六月十五日歿、享年六十二。 玉潭 42歳 )





 『 松本壽○ 墓 』 (鯖江家老) 鯖江王山東麓 (旧 萬慶寺墓所)



居士諱壽○稱縫殿松本氏 ○○・・父曰壽忠稱右内丗系詳載其碣文○○
仲○○士其仲○○也恭○壽○殤○為嗣年○○崇○○・・長○○・・中老○
安永六年丁酉九月十七日○○・・而生○鯖江以文政三年庚辰九月十九日
○秋月○○・・葵于曰○○・・葬于万慶寺後先塋側娶叔吉田義矩之養女實
近藤氏之女也前年先歿生四男二女長曰幹郎壽英卓殤以次○蔵之丞壽○
為嗣主曰榮十郎四曰藤之進二子並夭今年之春再娶福井家臣○藤氏之女
後裁數○○○木焉噫

                 芥川希由應請志時文政庚辰年冬
                   哀子 松本鍬之丞壽有建之


 ( 松本壽○ 文政三年(1820)9月19日没。 44才   玉潭 42歳 )





 『 観音大士日参六十一年碑(小堀正韶翁) 』 鯖江城下瓣天堂境内 
(碑銘文 『若越墓碑めぐり』より)



鯖江城下不動院之觀音傳稱朝倉氏遺物也翁信之毎日詣拜至老不懈常得其
霊報而身無病家多福自發志至於今里霜遠○支干一周其勤行非常人所及也
乃異之立碑堂前以記之翁齢向八十○鑠健歩○後叉積年数○○○之云
芥川希由銘     文政四年辛巳冬十月十八日建  諸願成就
寳歴辛巳始日参六十一年  文政辛巳ニ至ル  小堀正韶 七十九翁



    ( 文政四年(1821)10月18日建、 玉潭 44歳 )






 『 小堀正韶 墓 』 (鯖江藩家老)  鯖江王山東麓 (旧 萬慶寺墓所)



居士諱正韶俗称十大夫小堀氏父名武雅称勘十郎母為鯖江家老母曽我祐
久之女也兄曰正相居士次男也以父任家召出別為一家給祿百三十石累還
至番当上班度事五丗九五十八年忠貫勤勞罷遇益厚屡慰其年老特加賞賜
生于寛保三年癸亥五月十八日享年八十三以壽而終實文政八年乙酉二月
十日也葬于万慶寺後山中釋諡曰實相院娶越府臣高木氏二男一女曰正均
通称十助嗣家次曰正孚称畤出為水谷氏之後女為本家従子正恭之配

芥川希
[””のツクリが””の字=ゆう]謹志


 ( 小堀正韶 文政8年(1825)2月10日歿、享年八十二、 玉潭 47歳 )







 『 小堀正均 墓 』 (鯖江藩家老)  鯖江王山東麓 (旧 萬慶寺墓所)



居士諱正均通稱友之進後改十助小堀氏鯖江○臣父曰十大夫正韶母木氏
少蒙 召出勤仕近侍経年後爲侍頭父歿襲家禄昇進物頭少時在勤東都奉命
學烽火術於森重都由翁稱合武三島流受其許可其曰訣書秘傳于家為一藩之
武備○以安永五年丙申五月廿三日生以文政十一年戊子六月十ヒ日未刻終
焉年五十三葬万慶寺先塋娶母木氏先没生二男長曰正美次曰元次郎先夭
再娶丸岡鷹屋氏

孝子 小堀正美建焉
芥川希
[””のツクリが””の字=ゆう]誌之


( 小堀正均 文政十一年(1828)6月17日歿、享年五十三、 玉潭 50歳 )







 『 奥村義c 墓 』 (鯖江藩家老)  鯖江王山東麓 (旧 萬慶寺墓所)



・・・乎其長逝        芥希
[””のツクリが””の字=ゆう]

  <奥村家墓碑群の改編により碑右側面の銘文判読不可>







( 奥村義c 文政十一年(1828)10月13日没。31才 玉潭 51歳 )










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南越鯖江藩儒初代   芥川 思堂 (左民、子泉、元澄)
南越鯖江藩儒三代   芥川 歸山 (捨蔵、済、子軫、舟之)
南越鯖江藩儒四代   芥川 強 (護、子輻、南軒)



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